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論説 No.25 北朝鮮の自由経済・貿易地帯、いわゆる「羅津(ラジン)・先鋒(ソンポン)経済特
        区
」への道程
 副題:多数の国外逃亡予備軍



 1998年7月29日、鳥取県米子市駅前の「ビッグ・シップ」の中ホールで「第八回東北アジア経済フォーラム米子会議」がが開催され、七ケ国から政治家、エコノミスト、官僚ら約500人が参加した。
 筆者はこの種の会議への参加は初めてであったので、事前に各種の資料をインターネットで検索し一応の知識を得ていたが、たまたま喫煙場所でお合いした駿河台大学経済学部教授の斎藤氏に従来の経緯をお尋ねし、幾つかの疑問を整理した上でフォーラムに参加した。
 フォーラムの詳細は割愛するが要はロシアのポシェットおよびその東40kmに位地するザルビノ港を門戸として北東アジアの一大経済圏を構築しようとするものであった。

 思えば、このポシェット湾は遼東半島から南満州、北朝鮮を大きく領有していた高句麗国の滅亡後に、満州(現在の中国東北三省)の内陸部に首都を持つ渤海国ポシェット湾に船舶の根拠地を持ち、日本に使節を送る際、そこから風と潮流を巧みに利用して南下したとの史実がある。日本にも因縁というか絆のある名前である。
 
 天然の良港、ザルビノ港は中国東北三省の吉林省の王軍春(フンチュン)市から中ソ国境の長嶺子まで9km、長嶺子からロシアのクラスキノまで35km、そこから30kmでザルビノ港の達する。合計70kmである。長嶺子は中国とロシア間のトラック輸送の貨物の通行路として開かれた国境で、そこまでの道は完全に舗装されている。ロシア側の道路整備は進んでいるのだろうか。
 

 クラスキノ村を通過して東に進むと右手にポシェット湾が見え、その東方40kmにザルビノ港がある。共にウラジオストックまで鉄道が通じている。

 ポシェット港は本来ロシアの軍港であるが、一万トン級のバースが三基あり、またガントリー・クレーン十一基を備え、石炭や非鉄金属、木材などを日本、韓国および北朝鮮に輸出する機能も果たしている。1998年、中国はこの歴史的にゆかりのあるポシェット港の一部をロシアから租借し、中国のフンチュン市との間に鉄道を建設したことから、ザルビノ港と並んで図イ門江流域開発の拠点として開発の機運が高まってきた。ただし、本格的な貿易港にするためにはザルビノでは岸壁を含めブースやクレーンの充実を要し、ポシェットでは港湾内約500メートルに渡る浚渫が不可欠であるとされる。

                       
 
 中国は図イ門(トーメン)からフンチュンを経由してポシェットに至るルートを重要視し、道路および鉄道設備や通信設備等の整備を図っている。
 

 これに対して、北朝鮮はかって、満州の大豆を日本に送る港として活気を呈した元山(ウオンサン、清津(チョンジン)および羅津(ラジン)港の利用を計画し、先鋒・羅津(ソンポン・ラジン)の経済・貿易特別地区(特区)の建設を急いでいる(先鋒ソンポンの旧名は雄基ウンギ清津港の一部は対日工作船の発進基地になっている)。即ち、二つのルートがあり、それぞれ北東アジアの一大経済圏の構築に向け努力しているが、横の連絡、調整が欠落しているのが残念である。それはこの壮大なプロジェクトを企画し、調整して演奏するの指揮者と舞台装置(資金計画)が不在のためである。

 今回は最近の北朝鮮の切羽つまった諸問題を考慮し、「先鋒・羅津経済・貿易特区」を取り上げてみる。

 この経済特区は1993年に設置された。面積は746平方キロメートル。周囲を金網で囲っている。当時その周辺に居住していた約15万人の住民を強制立ち退きさせ、その後に全国から厳しい審査を通過した五万人を移動させ、以後、毎年増員している。2002年の現在、この特区の合計人口は約16万人程度と見られる。

                                 羅津港(肥料バース)
                       

 この住民の選別はいうまでもなく出身および現在の職業で区分されている51の成分(ソンブン)(階級制度)の中の「核心の階層」、別名トマト(外見も中身も赤い忠誠グループ、全国民2300万人の30%)の中から選ばれている。

 ちなみに約50%を占める「りんご」と呼ばれ、どちらにも転ぶ恐れのある者を「動揺階層」と位地ずけ、また「ぶどう」とよばれる内外ともに変な色と識別される約20%の「敵対階層」の者は大都市の居住を拒否され、主として辺境の鉱山で代々の世代が就労する。昨年以来、事実上崩壊した食料等の配給制度もこの階級に応じて軽重がつけれていた。インドのカースト制度よりも遥かに非人道的な仕打ちである。これは現体制の維持のため案出された
恐るべき絶対的な階級制度なのである。

 1996年9月に朝鮮対外経済揚力推進委員会が投資フォーラムを主催し、日本から250名程参加した。その構成はマスコミ関係者、学者、在日の商工人、戦前の元居住者等で、新潟から客船で約40時間かけてラジン港に入港した。当時はこれだけの人員を収容するホテルがないとのことで客船がそのまま洋上ホテルとなった。このツアーへの参加は査証(ビザ)は要せず、「ラジン・ソンポン市行政経済委員会」の招待状だけでよかった。
 
 投資フォーラムには日本語や英語の通訳が動員され、経済特区の免税措置や優遇制度についての説明があったが、道路や鉄道の整備は遅れ、電力や通信、上下水道も未整備で、肝心のインフラ整備について明確な資金計画がないことは誰の目にも明らかあった。ただ満足できるもは安い土地と労働力だけというのが現実であろう。

 この北朝鮮の北部地方(ブクブジバン)の南部の琴湖地区に建設が予定されている原子力発電所の軽水炉の着工式が朝鮮半島エネルギー開発機構(IAEA)により2002年8月7日に行われた。本体のタービンの製作は日立製作所と東芝が担当し、一基目の完工は2008年11月、二基目の完工は1009年12月の予定である。すでに韓国側による技術者の養成教育が行われているが、ここから安定した電力の供給が行われるのはまだまだ先の話である。

 この参加者の中にはもう少し実態を知りたいと再度訪問したものが少なくない。その一人の話しを聞いた、それによると、招待状は
申請後3ケ月で発給され、今度は企業調査の名目で正式のビザを取り、1997、成田-北京経由で中国東北地方の朝鮮族自治州の州都、延吉(イエンジー)まで飛び、そこでガイドとハイヤーを雇って図イ門(トーメン)市を経由して王軍春(フンチュン)市に至り、そこから南下して豆満江(中国では図イ門江と呼ぶ)を渡ってラジン・ソンポウに入るよう総聯系の旅行社に手配を依頼したとの事であった。
 
 延吉(イエンジー)の空港には日本語と朝鮮語のできるガイドが迎えにきて、市内のレストランで食事を取った後にトーメン経由でフンチュンまで車を飛ばした。延吉から図イ門までは約50キロ、信号がないので速く走れた。 翌日早朝6時ににフンチュン市街を出発して二時間余りで国境の圏河(チェンフウ)村に着いた。税関事務所で出国手続を済ませ、中国側のガイドが付き添えるのは元汀(ウオンジョン)橋の手前のゲートまでだった。橋を渡って北朝鮮に入る。 橋は全長1キロ余り、極寒期にここを一人で荷物を手に歩いて渡り、丁度川の真ん中当りで手すりの色が変わり、ああここが本当の国境なのだあと実感した。
 
 豆満江は厳冬期には凍結するが、北朝側の川岸には監視所があり越境を防止している。また川幅の狭い場所では土手の随所に蛸壺状の監視所があり主として北鮮側からの逃亡者(脱北というそうな)を監視しているそうな。
 
 税関受付には軍服着用の係が数名いて、中国人のトラックの運転手が数人、通関検査を待っていた。中国の商人は「中華人民共和国中朝辺境地区出入境通行証」があればいい。行商人の滞在許可期間は1ケ月で、常時、数千人が地方の主要都市を巡っているという。これらの行商人の運ぶ物資で北朝鮮の闇経済は成り立っている。

 パスポートと招待状を窓口に提出し、観光局の案内人が到着するまで底冷えする待合室で待っていた。案内人は三人もいて、その一人は日本語を話し、その上役は観光局の役付き、最後の一人は労働党の指導員で、このほか運転手が一人いた。車は日本製のバンだった。所持品検査でご法度の品目はトランシーバー、ポルノ雑誌、麻薬、劇薬、武器、弾薬、反体制および社会秩序の維持を脅かすもの、それと日本の新聞や週刊誌も不可である。携帯電話は強制的に預かり、出国時に返却される。驚いたことは、入国検査が終わると、パスポートは指導員が当然顔でポケットにしまってしまった。人質としての措置であろう。出国まで預かるといって。
 
 そこから未舗装の山道をたどって二時間後に先鋒(ソンポン)の中心街に入った。途中すれ違う車は殆どなかった。昼食はソンポン琵琶(ビバ)ホテルで済ませたが、広い食堂でただ一人きりだった。羅津(ラジン)への途中、ソンポン港の傍の火力発電所を車中から見学したが、1972年に建設されたとかで、煙突もプラントも赤錆になっていた。アメリカからの援助の重油で稼動していて出力は20万キロワットとのことで、いかにも小規模である。発電所から未舗装の道路を10キロ余りでラジン市内に到着した。市内の道路は舗装されているが随所に大きな穴があいたあままで、車はそれをよけて蛇行する。到着後、直ぐに「革命博物館」の見学が義務つけられており、室温二度の中で震えて素通りする状態だった。

 ホテルはラジン・ホテル、二部屋続きの豪華な部屋だが停電中でエレベーターも動かなかった。夕食は一階のバンケットルームで40卓のテーブルの客は数組だけ、ここでも一人で食事して草々に部屋に戻って横になった。夜は町中真っ暗で、案内人三人も同じフロワーに宿泊していた。まさに軟禁状態である。翌朝、市街を抜けて湾岸の道に出て見た。砂浜には海岸線に沿って二列の杭を打ち、竹柵と有刺鉄線を張っている、そして砂地に真っ直ぐな筋目をつけ、人が通ると足跡が分かるようにしている。これは密入国の防止というよりむしろ脱国防止策であろう。先鋒(ソンポン)湾から岬を越えて東に30キロでロシア領の海岸にいたる。

 ラジン・ソンポンの人口はそれぞれ8万人程で、翌日は行委員会事務所に案内され、改めて経済特区の説明を受けた。即ち、経済特区の企業管理は自由で貿易制限がない。税率は25%から14%に軽減し、特に、インフラ関連企業はさらに優遇するとの事。豆満江にかかる元汀橋親善橋の二つは査証なしで通行可能とのこと。1997年4月からはラジンと中国のトーメンを結ぶ直行列車を運行する。ラジンにヘリポートを建設してウラジオストック延吉(イエンジー)と空の便で結ぶ。ラジンから元汀橋まで海辺道路を造成する。琵琶海岸には香港エンペラー・グループの出資で五つ星クラスのホテルを建設し、カジノを設ける。チュジン海水浴場付近の丘陵にテコンド・センターを建設する、等々と。全て外国からの出資を当てにし自己投資の裏付けのない計画である。
 
 在日僑胞(キョッポ)の投資したという水産加工場の工事現場に案内されたがまだ基礎工事の段階であった。2002年の今日、状況はどうなっているのか。聞けば別棟のカジノはオープンたが、ホテル自体は未完成のようである。そして水産加工場も規模を縮小して完成したようだ。カジノの客は殆ど中国の吉林省からの中国人だけだそうで、1996年には約10.000人もの外国人がこの地区に来たらしい。延辺朝鮮族自治区の住人が海を見るために特区にくるようだ。この特区での換金レートは1ウオンが68円となっているがこれは建前で、実際は1ウオンは1円である。特区のレートは1ドルが200ウオンであった(1997年)という。
 
 
 中国東北地方の国境付近の中国延辺自治州(州都は延吉)には約120万人の朝鮮族が居住し生活している。この地域は先の大戦前は「間島」と呼ばれ、清朝、李氏朝鮮時代まで中国人と朝鮮人の混在する地帯となっていたのである。代表的な国境の都市、図イ門(トーメン)市の対岸は北朝鮮の南陽市で、その間に架かる図イ門大橋は親族訪問の朝鮮族しか渡ることができない。トーメン市の住民の生活レベルは北朝鮮から見れば物資が豊富で腹一杯食べられる本当に羨望的な生活レベルであろう。市街地は多数の人々が行き交い、夜間も煌煌たる電光で別世界に見えることであろう。中国人の体格は北朝鮮の住民が指導者階級除き、殆ど小柄で痩せ衰えているのに比べて皆が首領様のように福々と肥えていると言ているそうな。
        
                      図イ門橋(石橋)対岸が北朝鮮側
                  

                この橋は1941年に旧日本軍により建設され、幅ha約10m、長さ約300m

 国境の町、南陽はかっては辺境の地であったが、今や、中国の経済援助と密貿易のおかげで北朝鮮の中でも最も食料事情の良い地域になっているらいい。闇市場(ジャンマダン)の物資は豊富で、本来は無償で配給されるべき国連援助物資が横流れされて多量に出回っているという。。日本からの援助米も同じであろう。しかし北朝鮮の労働者の平均月収が100ウオン程度の中で、米1キロが100ウオン、卵一個が50ウオンでは法規違反の密貿易をするか悪事を働かねば購入できなまい。悪事の範例は電線を切り取りその中の銅線を売るという。その他倉庫から食料の盗み等々、生きるための切羽詰った行為であろう。金のない者は煙草、玉蜀黍、電球や石鹸をお金の代わりにして物々交換が一般化しているという。闇市には浮浪児(コッチェビ)の姿が多数見られるそうな。ぼろぼろの衣服をまとい食べ物屋の付近をうろつき、真に哀れな姿だという。冬をどう過ごすのか。聞けば大都市の闇市場にはこのようなコッチェビが多く、さらには近年不良グループが急増し、その過激グループは突撃隊(トルギョクテ)称し、ゆすり、恐喝、強奪等を働き、夜間、灯火の消えた大都市で、社会安全部の安全員による取締りも十分な効果挙げてないようだ。首都の平壌市とても同じで、夜間は宣伝塔などを除き暗黒の都市で、大金を持った日本人の夜間外出など格好な標的になろう。

 北朝鮮は2002年7月1日から経済改革に踏み切った。これは「計画経済を堅持する前提で現状に合わせて経済管理を強化し、朝鮮式の経済の現代化の発展の道を歩む措置」(国家計画委員会国民経済総合計画局)という。。この経済改革の意図は「生産面での労働者の積極性を高め、多く働いた者が多く得るという、労働に応じた分配を堅持するため」とされる。崩壊したソ連式の負の遺産の「ノルマ」主義を排し、労働意欲を刺激することで、計画経済の行き詰りを打破することが狙いである。

 8月1日から1ドル=150ウオンの外貨交換レートが明らかになった。これは闇経済の実態に合わせたものである。労働者の給与も現在の100〜150ウオン(平均)を15〜20倍に引き上げ、労働、生産性に対応して給与を定め、能率給の比率を高めて労働意欲の向上を狙っている。昨年以降、実質的に崩壊していた配給制度も一部の穀類(主食の玉蜀黍)を除き全面的に廃止されることになった。

 しかし、一般労働者の給与が2000〜2500ウオンに上がっても、自由に購買できるようになった日用品の価格も20〜30倍に大幅に引き上げられ、公共交通機関の運賃も同様に上昇した。一般公務員の平均給与は3000〜3500ウオン、テレビ記者は4000ウオンになった。米の販売価格は1キロ0.8ウオンが44ウオンに、そして農家での政府買上価格が1キロ0.6ウオンから40ウオンに大幅に引き上げられた。嗜好品と見なされる品目、例えば、インスタントコーヒーの大瓶が1340ウオンと70倍になり、また日本製ビール1本が300ウオンでは庶民の生活の実質レベルの向上には程遠い。しかし、競争原理の意味に目覚めてきたことは大きな成果で、例えば、英国のビール醸造設備を導入し、オーストラリアからの輸入原料を用いて製造した地ビールを1リットル35ウオンで販売を開始するなど、新しい息吹も芽生えてきたようだ。
 
 圧政と飢餓を逃れるため親戚、縁者を頼って豆満江を泳ぎ渡り、あるいは中国の商人の帰路のトラックの荷の中に隠れて危険を犯して脱出する者が後をた絶たないそうな。残るも地獄、監視の目を逃れて脱出するも生死の境いという。中国政府はこれらの越境者を飢餓難民とみなし、1998年には北朝鮮に抗議したが、北朝鮮政府は「越境者を強制送還するよう」回等しただけだったという。中国と北朝鮮両国に間には「国境安定協力議場書」が結ばれており、中国側の辺境の駅には中国の公安に捕らえられた越境者が毎日のように連行されているそうな。本国に送還された場合には監獄での餓死が待っている。

 中国の東北三省特に、吉林省に不法居住するこのような北朝鮮の脱出者は一説では10万人とも20万人とも言われ、中国官憲の摘発の目を逃れるため隠遁生活を送っているのでその実態は不明である。定職には就けないので、物乞い、泥棒や売春婦に凋落している者も少なくないという。
行くも地獄、帰るも地獄である。なんとかして難民として中国、韓国や日本に入国したいと機会を狙っている。2002年になって、国際ボランティア団体がこれら難民の救済計画を訴えている。
 
 この中には1959年日本と北朝鮮の赤十字社の間で締結された「在日朝鮮人帰還協定」に基づき、同年12月から1967年までの8年間に約93,000人の在日朝鮮人(大部分が韓国に故郷を持つ人たちで、、北の出身者は2%程度で、日本国籍の日本人妻が約1800人いた)集団永住帰国した人びとが少なくないと見られる。この集団帰国の背景には、1950年代の貧困と差別に苦しむ在日朝鮮人社会の閉塞状況ともう一つ、日本政府の朝鮮人追い出し政策と、北朝鮮の政府の労働力補充政策が後押ししたのであった。
 
 北朝鮮を脱出して逃亡し、中国あるいは韓国または日本に入国するには相当の資金を要する、これらの人びとは長年かけて在日の親戚(僑胞キョッポ)から物品を送ってもらってそれを換金し、必要な準備金と食料の備蓄を図ってきたのであろう。北朝鮮えの帰還者は帰胞(キポ)と呼ばれ、成分は20数位前後で、官憲から在日の僑胞に連絡して物資を送るように依頼せよと強要されるという。

 脱出には決死の勇気と忍耐力が不可欠で、なお成功率は少ない。 日本政府もそろそろ本腰をいれてこの問題に取り組む必要があろう。根本は
人道問題である。
 
 作家の梁石日(ヤンソギル)氏の小説「夜を賭けて」で、主人公の在日朝鮮人、金義夫が息子一人で帰国させてしまった北朝鮮のことを友人に語るくだりがある。”北朝鮮の人民は食うや食わずの生活をしているのに、あんなでっかい金ピカの金日成像なんか建てて、わしも拝まされたわ。あんなものどうかしてる。金剛山のいたるところの岩には「偉大な首領金日成万歳」とか「主体思想万歳」という朱色の文字を三千余も刻んだりして、頭がおかしいのとちがうか。おまえは十原則を読んだことがあるか。金日成のことを一瞬たりとも忘れてはならないとか、わしらは金日成のお陰で生かされているとか、金日成のためにいつでも死ねる覚悟をしておけとか、戦前の天皇どころやないで。古代のエジプトのファラオより凄いわ。ほんまに組織の連中はいつでも死ねる覚悟ができているのかな。どないせい言うねん。金日成もわしらも同じ人間やと思うてたけど、金日成の前ではわいらは人間でなくなるんや。ポーランドの映画監督のアンジェイ・ワイダが「金日成のパレード」というパンフレットに「北朝鮮の人民は人類史上完全無欠の奴隷である。どのようにしてあのような完全無欠の奴隷をつくりあげたかのか」と書いてたな。わしらは褒められているのか、それともけなされているのか、どっちやろ。多分褒められてるのとちがうか。なんせ人類史上完全無欠やさかいな”っと。
 
 これは北朝鮮をそのままズバリと語った具体的な表現であろう。そしてこの事実は金正日総書記にそのまま継承され、いやむしろ完全無欠の奴隷制度は益々強化されているのである。


 そして次なる大きな問題はこの東北アジア経済圏の構築は本当に意義あるものかどうかである。そもそも複数の国家間で経済圏ができるには、お
互いに國際分業と協業ができるような環境が不可欠な前提である。即ち、中国の東北三省、モンゴルおよびロシア極東地方は世界の天然資源の宝庫であるが、インフラや資金が不足している。一方、天然資源を必要としている日本や韓国は資本や高度の技術を持っている。これらを相互に補完しあう形で地域の開発を進めることをいう。

 土地の借用料が安いことと低廉な労賃にひかれ、国内産業の一部を移してお互いに同じ物を生産しても物資の交換、分業の意味がない、いたずらに国内産業の空洞化を招くと共に価格破壊を起こし、自国経済混乱を招くだけである。
國際分業とは相互に足らざるものを交換し、補完することで成立するのである。


 日本では日本海に面する各都市がこれを
「環日本海経済・貿易圏ととらえ、それぞれ中枢的な窓口港たらんと画策し競合している。先ずは実績のある新潟市は八本の國際航路を運行する新潟空港を擁し、また新潟港はロシアの樺太(サハリン)、沿海州のウラジオストック、ナホトカ、ザルビノ、ポシェット、北朝鮮の羅津、清津、韓国の釜山等との間で物資(主として海産物、マツタケ、材木、チップ、重油、薬草、朝鮮人参、琥珀の輸入、および電化製品、鋼鉄、ニッケル製品、かみそりの刃や機械工具などの原材料、農機具、紙類、中古車、その他、雑貨の輸出等)交流が活発で、また人事の交流、往来も盛んで定着している。名実共に環日本海経済・貿易の中枢であろう。新潟市は上越市と共にロシアのブラゴウォウシェンスク(黒龍省の黒河(ヘイフー)の対岸のロシアの町)と姉妹提携を結んでいる。毎年二月に外務、通産両省のバックアップで新潟県が主導して「六ケ国東北アジア経済会議」を開くなど積極的な動きを続けている。なんといっても強みは京浜の大後背地までのアクセスが短い点にあろう。

 次に続くのが、「北陸環日本海経済交流拠点の形成を目指す」北陸地域(富山県、石川県、福井県)は日本海沿岸地域の中央に位置し、関東、関西、中京の三大経済圏からほぼ等距離にあり、極めて有利な地理的条件を備えている。三つの県がよく協調して着々と交流の実績を積み上げている。また数多くのセミナー、シンポジウム等の開催を通して理解を広める努力をしている、三県を統合した沿岸人口の総数は大きな利点である。
 
 日本海の西部に位地する鳥取環の境港市は人口37,000余、かっては日本最大の水揚げ量を誇った水産都市であるが、隣接地の米子市16万の人口を含めても都市基盤の規模が小さく、また阪神の大経済圏に対するアクセスも劣る。それでも境港市は中国のフンチュン市および北朝鮮の元山(ラオンサン)市と姉妹あるいは友好提携を結び小規模な人事交流の努力を続けている。そして環日本経済・貿易圏の一隅を占めることを狙っている。しかし、ロシア極東、シベリア地域、中国東北地方、モンゴル、朝鮮半島およびその周辺地域を包括するこの一大経済・貿易圏との交流において大きな役割を演じるには器量不足はいなめない。小さな巨人と評価することもできるが、まずは、鳥取、島根の垣根を取り去り、中海、宍道湖周辺都市を糾合した経済圏を確立して基盤を固めるのが焦眉の急であろう。


 このように対岸協力を進める日本海側の望ましい対応は、特定の一地域を対象とするのでな、北東アジアの経済圏として捉えることが重要である。

 
参考:東北アジア開発の主な動き


         
                                                                  (ガス供給パイプ・ラインの構築案)
                         

1 「図イ門江地域開発計画(TRADP)」
  東北アジア地域の5ケ国、中国、ロシア、北朝鮮、韓国、モンゴルで構成する
「図イ門.域開および北東アジア開発のための諮問委員会」の地  域開発プロジェクト。現在、東北地方と海外の貿易は、一部の対ロ国境貿易を除き、ほぼ全量が大連港、営口港に輸送されている。しかし、1990年 代後半から黒龍揚江省と吉林省の東北二省から大連への鉄道貨物輸送が限界に近づいている。そこで、ロシアのザルビノ港を鉄道で結ぶ「ザ  ルビノ・ルート」と北朝鮮の羅津・先鋒自由貿易地帯の羅津港を利用する「羅津ルート」の2ルートが急遽浮上してきた。海へのルートが確保さ   れれば、吉林省東部の開発が進むと共に、トランジット港となる北朝鮮とロシアの港も発展が期待される。現在はロシアよりも関税の免除や優遇措 置を適用している羅津港のほうが活用されているが、1997からは吉林省のチップを陸路からザルビノ港経由で日本に輸送を開始した。ザルビノ   港に至る鉄道の建設と共に、港湾整備が進展すればこのルートの将来は明るい。
  
  このプロジェクトは中国、ロシア、北朝鮮三国の国境が集まるう図イ門江下流のデルタ地帯を國際共同開発して、東北アジアの生産・物流基地 にするというのが基幹である。

.「東方水上シルクロード」
 黒龍江省では省東部の国境の町、スイフェンフーからロシアのウラジオストックなど沿海州地方の港へのルートの整備を進め、ハルビンを基 点に松花江(ソンホアジャン)、アムール河間宮海峡を経て日本に至るルートもその一つである。
  ロシア沿海のニコラエフスクから間宮海峡を南下する東方水上シルク・ルートで中国の家畜用飼料を坂田港に輸入しているケースもある。

3. 「ザルビノ港整備計画」
                                 
                          ザルビノ港
 (自然環境あふれる名勝地)
                        

  「図イ門.江地域開発計画(TRADP)」に伴う王軍春(フンチュン)市ザルビノ港の間に鉄道を建設し、中国の標準軌(1.435cm)とロシアの広軌( 1.520cm)をフンチュン市郊外の太陽村とロシアのカアムショウバヤの二箇所に建設する積替え駅の間を相互乗入れさせる計画であるが、ロシ ア側については資金不足ため着工のめどがたってない。ロシアは日本からの資金援助を期待している。さらに国境に不可欠な信号設備、通信設  備、通関設備、倉庫、コンテナ積替え基地に必要なクレーン設備等々、問題が山積し、この路線が本格的に活動するにはなお時日を要する。

  ザルビア港については米国も関心を示し、現在、東北地方への荷は全部、釜山経由で大連に下ろしているが、大連港の混雑で待船するので 時間もコストもかかる。一方、米国西海岸からロシアのナホトカ港に準定期ルートが既に開設されているので、ナホトカでロシアの荷を下ろし、ザ ルビノ港で東北向けの荷を下ろすのが効率的および経済的である。しかし、このザルビノ港は不凍港で天然の良港ではあるが、設備が極め貧  弱(ハンガリー製のクレーンが数基)なので、その充実、拡張が不可欠である。さらには同港から周辺都市に至る道路の舗装整備も必要であるが、 資金難のため見通しがたたない。 

 

                                                  完

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