論説 No.20

数奇の放浪、生きていたニコライ二世の第四皇女アナスタシアの軌跡

 1960年代、米国中部の都市セントルイスの東方郊外にあるスコット米国空軍基地内の通信学校の通信将校課程に留学中の時、当時は日本からの留学生が少なかったのか、随所から招待を受けたものである。特に基地近傍のアナヘイム村に居住するドイツ人の家庭にはよくお邪魔した。綺麗な娘さんがいたせいでもあろう。当時の私は27歳の1等空尉(空軍大尉)、軍人優位の米国では随分ともてたのだった。



                         

                         よく招待を受けたドイツ人一家 一人娘のヘレン嬢は23歳


 
 私はそこで一夕、珍しいテレビ番組をその家族と共に視聴することになった。是非にといわれて。 それが表題のロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世第四皇女アナスタシア(17歳)の物語である。当時ニューヨークのブロードウエイで上演されていたとかで評判の番組とのことで、そのドイツ人家族はアナスタシア皇女にいたく同情していた。ロシア王朝とドイツとの関係の深さは当時の私の知識と理解の範囲を越えていた。
 
 そこでは、ロシアのロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世の四姉妹の末娘アナスタシアと第二次大戦後、米国に帰化したロシア人アナ・アンダーソン・マナハン(アナ・アンダーソン、旧姓ロマノフ、学歴は家庭教師により教育を受けたと云う。母親の名前はアレクサンドラ・ヘッセン・ダルムシュタット、これはドイツでの旧姓))との関係が論議の主題になっていた。
 
 建国の歴史の浅いアメリカではロシア王朝に対する深い親近感があるらしく、1954年のブロードウエイ・ミュージカル以降、ブロードウエイの舞台、ハリウッド映画、ヒット・アニメなどで数多く取上げられてきたのだった。
                       
                 前列右からニ人目が皇太子アレクセイ、三人目が第四皇女アナスタシア
 
 四人の皇女たちはいずれも美貌に恵まれ、その写真はプロマイドとして広くヨーロッパに頒布されていた。末娘のアナスタシアはお転婆で、ひょうきんな行動で意表をつくようなことが少なくなかったといわれている。

 1980年代になって、反乱軍の赤軍兵士に処刑されたといわれる皇帝一家の遺骨がエカテリンブルグ郊外で発見された。
 1991年、DNA鑑定を含む最新の科学的鑑定の結果、これらの遺骨はニコライ二世一家および主治医や看護婦などの遺骨と断定された。しかし皇太子アレクセイ第四皇女アナスタシアと確認できる骨はなかったという。
 
 さらに、2001年8月、ある新聞に北里大学の長井辰夫教授が、ニコライ二世の着衣にしみた汗や彼の甥の血液、弟の骨や髪の毛のミトコンドリアDNAの塩基配列がニコライ二世とされて埋葬された人骨のDNAとは異なっており、ゆえにこの人骨はニコライ二世とは別人とする研究発表が掲載された。ここで私は俄然興味を感じ、各種の文献を調べる気になったのである。
 
 なにか血が騒ぐ思いがした。アアそうだ、上海の時のことだと思い当たった。私の父、実(52歳で死去)は大分県杵築中学をでて、県費留学生として満州のハルピン大学でロシア語を専攻し、外務省に入り、杵築中学の先輩である重光大使の引きで上海総領事館に赴任し、ロシア革命で上海に逃れてきた帝政時代の高級官僚、軍人、教員、医師、僧や牧師等の宗教関係者など約5000人にもおよぶ白系露人の担当となったのであった。そのためか私の幼児期は共同租界の荻思威路にあった日露協会学校の幼稚園で過ごし、ロシア正教の各種のイコンになじんでいた。中学生の頃はフランス租界のジェスフィールド公園に近い靜安寺路に居住し、その官舎は白系ロシア人の溜まり場の感を呈し、いつもロシア人が我が家に来ていた。思い出すのはツレチャコフという名前の陽気な叔父さんがいつもいた記憶がある。そして片言の日本語で帝政ロシアの素晴らしさや皇帝一家の自慢話しをするのが常だった。ハルピン大学在学中にロシア正教に帰依したという父の書斎にはニコライ二世皇帝一家の写真や聖母のイコンが壁に飾られていた。四人姉妹の下の末ッ子の皇太子アレクセイの気高い姿に特に引きつけられた記憶がある。これらのことは幼少時の原体験というか、すり込みとでもいうのだろうか。
 
 私はなにかロマノフ王朝の最後の皇帝一家の最後を追求することを運命づけられているのかもしれないと感じた。  
 

 アナスタシア皇女の生存を信じる人達によれば、幽閉、監禁の場から逃亡したアナスタシア皇女を救ったのはロシアの小作人アレクサンドル・チャイコフスキーで、皇女はその人物と一緒に陸路ベルリンまで逃避したとしている。

 たしかに、1920年2月18日の深夜、ベルリンのラントヴェール運河にベントラー橋から身投げした若い女性がいた。尋問には反抗的な態度に終始し、一切を黙秘した。その結果、警察はその娘を精神傷害者とみなし、エリーザベト病院に送り収容した。6週間後、ベルリン市外のダルドルフ病院に移され、そこでの診断は抑鬱的性格による精神傷害と判断され、その原因と見られる頭蓋の数ケ所の陥没のほか、一箇所の貫通銃創を含め身体中切り傷の跡や鈍器(恐らくは銃床)による打撲痕が多数認められたという。

 いわゆる正史はいう。エカテンリンブルグでは皇帝一家は「イパチェフ舘」という家に監禁された。隣はイギリス領事館である。この地はポリス・エリツインの出身地でもある。当時、チェコ軍を中心とする白軍が町の周囲に迫っていた。レーニンのボルシェヴィキ政権とドイツの間には「ブレスト・リトフスク条約」が締結されていた、それにはロシア新政権の承認の条件に皇帝一家の身の安全という条項が入っていた。イギリスが積極的になれば領事館からの報告により皇帝一家の救出は可能な条件が整っていた。だから皇帝は救出を確信していたのだろう。
 チェコ軍と白軍がこの町の総攻撃に入る前に皇帝一家はこの家で処刑されたというのが定説である。しかしおかしなことがある。それは処刑場所はイバチェフ舘の半地下の食堂だが、ラトヴィア人の銃撃隊員24名が一斉射撃を浴びせて皇帝一家と主治医や看護婦などを殺し、息のある者を銃剣で刺し殺したというが、その食堂の狭さから考えて銃に着剣した兵士24名が同時に屋内で射撃するなどは反射弾などを考慮すれば到底無理な話ではある。しかも壁の弾痕はみんな下部に集中していたのである。これは銃殺現場の偽装と疑える。
 
 実相は、ここで殺されたのは皇帝だけで、皇后と四人の皇女達は皇太子アレクセイとも離されて別の場所に移され、兵士達に暴行された後に撲殺されたという。皇太子アレクセイについての処置は全く不明である。しかしヴィクトリア女王の家系には血友病があり、これが皇太子アレクセイに出た。しかも出生時から重症だったという。この病気は当時、治療法がなく呪われた病気だった。一旦出血したらなかなか止まらない。撲殺するまでもなく、皮膚に傷をつけて放置すれば出血と苦痛のため悶死に至る。暗殺の必要もなかったろう。

 第四皇女アナスタシアと主張するアナ・アンダーソン・アナハンは次のように述懐したという。「ボルシェヴィキたちは皇帝一家に想像を絶するあらゆる屈辱を味わわせようとした。皇帝を椅子に座らせて、その眼前で皇后と皇女たちを繰返し陵辱した。ある夜に女たちは皇帝と皇太子から引き離されで汽車でペルミまで連行され、そこに二ヶ月程監禁された。私たちは最初は一緒でしたが次第にばらばらにされ、私は三度脱走たがその都度捕らえられ、そのたびに殴打され散々犯されました。なんどもなんども頭を銃の台尻で殴られました。一度などは銃で撃たれもしました。三度目の脱走で捕まった時、ボルシェヴィキたちは私を下級貴族らしい女がいる部屋につれて行って、「この女はロマノフのアナスタシアか」と首実検させられ、彼女は一目で即座に否定しました。私の顔は血まみれで容貌も全く変わり果てていたのです。そこでいきなり解放されました」と。
 「街をさまよっているときにアレクサンドル・チャイコフスキーという小作人と知り合い、彼の援助で急いでその町を逃げました。そして敗走している白軍と合流でき、食料を分けてもらって西に向けて逃げていましたが、頭部の打撲傷や全身の刺傷で気力、体力共に衰え、寒さのためもあって昏倒して氣を失い、氣がついた時にはイルクーツクの病院に収容されていました。17歳の時でした」、と。
 
 多くの変転の後、1928年、2月7日、アナ・アンダーソンはドイツを離れてニューヨークに上陸した。当時、ニューヨークで活動していたロシア人作曲家のセルゲイ・ラフマニノフはアナ・アンダーソンが皇女である可能性を信じた一人である。1930年7月24日、アナ・アンダーソンに精神異常者であるとする法的判断がくだされ、ウエストチェアスター郡のフォーウインズ・サナトリュームに強制収容された。やがてアナをヨーロッパに戻すことが最善という結論になり、ドイツ船でドイツに向って送り出された。 
 
 ロマノフの家系のものがイングランド銀行に預けてある皇女アナスタシアの持参金を着服するため法廷闘争に持ち込み、ロシア皇帝一家はエカテリンブルグで全員死亡したとする判決をベルリン中央地区裁判所に出させたのは1933年のことである。これは事実上アナスタシアを所有権者から排除するものだった。1937年、アナ・アンダーソンはこれに対抗して自分の主張を法廷に持ち込む決心をした。争点はロマノフの遺産の所有権を巡るものであった。1941年、法廷はアナの申請を却下した。アナは上訴したがこの事案の審理は戦争の終結まで一時中断することになった。1961年5月15日、裁判所はニコライ二世一家の暗殺が歴史的事実である以上、アナ・アンダーソンが皇女であるという主張は完全な事実無根であるという判定を下した。アナは控訴し、ハンブルグの高等裁判所に審理を移した。

 1979年、エカテリンブルグ郊外の森で、浅い地表の下に埋まっていた大量の人骨が発見されたが、当時の共産党体制下ではその調査は危険だったのでこの発見は秘密にされた。10年後、ソ連も民主化の時代に入り、情報公開も進み、この骨の発見が公にされ、西側の調査団が入り、DNA鑑定を含む最新の科学的鑑定がなされた。結果は99%の確率でニコライ二世一家の遺骨と断定された。しかしこの遺骨の中に皇太子アレクセイ第四皇女アナスタシアの骨は確認されなかった。

 1991年に、シャーロッツヴィルで死亡したアナ・アンダーソンの墓所は、ロマノフ家の遠い親戚にあたるドイツのロイヒテンベルグ公爵ゲオルクの居城ゼーオン城内にある。ここは亡命ロシア貴族にとって最高の場所だったそうな。庭園や調度品は丹念にロシア風に改造され、この地を旅するロシア貴族たちの中継点になってきたといわれる。皇女アナスタシアも一時ここに滞在し、ここを非常に気に入り、早い頃から終生の安住の地と定めていたという。
 
 アナ・アンダーソンはなぜ法廷で求められている事項、即ち、一家暗殺の状況、そこからいかにして逃げおおせたか、そしてドイツに至るまでの空白の時間について述べようとしなかったのだろうか。いや述べることができなっかったのだろうか。記憶喪失によるのか、頭蓋の強打で重要な記憶の一部が欠落したためなのだろうか、なぜロシア語を話そうとしないのか、母国語だけ消失するような脳機能部分の破壊のためなのか、一切が不明のままであった。数を数えることもできず、そして発作的に興奮することが常だったという。
 
 通常、固体の識別上、生涯変わらないとされるアナ・アンダーソンの身長や耳の形は皇女アナスタシアと同じであった。しかし容貌は全く変貌していた。これは無理からぬ点もあろう。

 革命とはかくも非情なものなのだろうか。人民の理想を求めたという共産革命の実態とはかくもおぞましいものだったのか。

 ソ連の共産党独裁政権70年の統治下で、数百万人のアナスタシアが作り出された。さらにソ連崩壊後のロシア経済は完全にマフィヤの傘下に組込まれ、政・官・財界に癒着、汚職、収賄は公然化し、富める者は豪勢な生活をおくる一方、貧富の差は年々拡大し、社会の底辺に低迷する多くの国民は軍人を含め給与の遅配、欠配に苦しみ明日への希望を失っている。そこに新たに踊り出てきたのがソ連共産党時代の偉大なる祖国への回帰帝政ロシアへのノスタルジアなのである。
 
 このことは1995年の選挙で一躍、新勢力として台頭して第一党となったのが共産党であったことでも明かである。ロシア国民はゴルバチョフとエリツイン時代を経て、世間に充満する腐敗、汚職や蔓延する犯罪を日常的に目の当たりにし、一時は救世主のごとく喧伝された資本主義と民主主義にすっかり失望し、特に、民主主義を語るときは侮蔑の表情さえ伴なう有様である。そしてまた、秘密警察KGBの恐怖やシベリアの強制収容群島、さらにはは徹底的な言論統制を思い出す大衆はまた過ぎ去りし帝政ロシアへの限りない愛着を感じるのである。ロシア正教の復活と共にイコンへの帰依とロマノフ王朝への憧憬の気分は益々高まっている。

            聖母”ウラジーミル”のイコン
                              
 
 イコンはただの宗教絵画ではなく一種の象徴である。それはアメリカの星条旗、イギリスの王室、そして日本の皇室が国家統一の象徴であるのと同じである。
 ロマノフ王朝への熱い憧憬の情を基礎にして、生きていた皇女アナスタシアに関わるロシア一般民衆の動向が今後のロシアの方向を決定する一つの要素にもなろう。

注:皇后アレクサンドラはドイツ王室に輿入れしたイギリスのヴィクトリア女王の娘、アリス大公妃の娘で「プリンセス・オブ・サンシャ   イン」と渾名されたほどの明るい女性であった。ただ一つ血友病の家系が危惧されていた。結婚後、ロシア正教に改宗し、名前もアレ   クサンドラと改めた。
  
  ・ロマノフのマリア皇太后はデンマーク王室に亡命。その娘、オリガ大公女(ニコライ二世の妹)はその後、デンマークを追放され、カナ  ダに移住し、没落貴族としてトロントの貧しい地区で一文なしの老婆として死亡した。「姪になんてことしてしまったのだろう」とつぶやいて  いるのを隣人が聞いたという。


参考文献:
・アナスタシア、消えた皇女   ジェイムス・B・ラヴエル
・皇女アナタシアの真実     拓殖久慶
・ロシア幽霊軍艦事件      島田荘司
・その他、インターネット検索

inserted by FC2 system