エッセイ・コラム

男シリーズ

その一

 この頃の男の子、特に高校生は一体どうなっているの、全部が全部そうではないとは分かっていても、余り気になるので話してみたい。

 道ですれ違った高校の男子生徒からほのかな移り香を感じた。アレー、女の子だったかと振り返ってみると、体形はスマートでなよなよとしているが男には間違いない。そうそう、以前に聞いたことがあった。朝シャンとかいって毎朝シャワーで身奇麗にして体臭を消し、そして腕や脛の毛を梳り、なんとかクリームを塗り込み、つるつる肌にするそうな。そうでもしないと、いとしい彼女からダサイー、とかフケツーといわれるそうな。

 君達よ、男とは本来野蛮でダサイくて臭いのが当たり前なのだよ。なぜかというと、男=闘争心がなければ、いとしい彼女と二人連れの時にチョット強そな奴がきて彼女をからかたりした時にどうするの、日頃、お母あさんが「暴力はいけない」といっているので、彼女を置いて一目散に逃げるのかね?。

 これが現代の日本の青少年の一般的な心情であろう。

 昔、アメリカで生活していた時、ある日、ハイスクールの運動場の傍を通りかかった時、中で生徒が輪になって大声で囃し立てている光景に出会わした。行ってみると、輪の真中で男子生徒が二人で殴り合いの喧嘩をしている。見よう見真似のボクシングの手で、みれば輪の中には先生らしい人物もいて、頑張れ頑張れ、正々堂々とやれ、卑怯なことをするなといって応援している。

 なお見ていると、一度倒された側が健気に立ちあがってまた向っていった。敗者復活戦である。また倒され、また立ちあがろうとした時、そこで先生の出番、よく戦ったと慰労し、強い方の生徒も相手の健闘を称えて握手して和解させている。臆病じゃないんだとお互いに認め合いながら。

 ああアメリカだなあと実感した。良い意味での西部の開拓精神の伝承を見た想いがした。そこには陰惨なそして陰湿ないじめとか脅しや金銭の恐喝などの日本の中学校で見られるような大人顔負けの犯罪行為はない。

 侮られたら立ち向かっていくのが男なのだ。
 
 軍略の大家、マキアヴェリもいっているよ。「国家にとって(即ち、男にとって)決して侮られたり、みくびられたりしてはならない」 と。また「名誉というものは成功した(勝った)者だけが得るとはかぎらない」ともいっているよ。
 
 そのためには、男なら、偏差値も大切だろうが強固な意思と頑健な肉体を鍛えることが重要だよ。武道や格闘技の習得と練成を怠ってはならない。

 愛しい彼女をエスコートできなければ、今はやりの性転換手術でも考えたほうがいいよ。

 

そのニ

 中学や高校生男子の制服について意見がある。 女子のセーラ服は帽子が無くとも様になっているが、制帽を着用しない黒の詰襟の制服はどう見ても独裁国家の制服か刑務所のものに見えてしまう。ましてや欧米人の目には真に奇異に感じるだろう。北朝鮮のダレカさんの制服のほうが色がまだしもだろう。なぜ制服は制帽と併用いてこそさまになると教えないのか。

 それが出来ないならば、
なぜ欧米諸国のように私服にしないか、には親の側からの「華美に流れる」、「乱れに乱れる」、「かえって出費がかかる」等の外、学校側からも「生徒の識別と管理の一元化」、「制服受注業者の既得権の侵害」等々、私服化できない理由は山ほどあろう。

 だけど、今、日本は大変革期、特に教育については抜本的な見直しが求められている。一律的な偏差値教育から個性の発現と育成、年配者を敬い公秩序を守る道徳感および宗教感(造物主に対する畏敬の念のこと)の付与、平等の不条理を脱して秀才教育の方向つけ、等々、真に大変である。 平等とは公正な立場でスタートラインにつけるようにすることを意味し、決勝点において勝者と敗者が生じるのは当然のことで、それを結果の平等を主張するなどナンセンスである。ただ、大切なことは敗者復活の場と機会が与えられるような社会をこそ建設しなければならない。

 そのような中にあって、先ずは個の自覚を確立させるには、類似の形をした集団の中に埋没さして己を失い、皆でわたれば怖くないの風潮からの離脱が第一歩であろう。 猫も杓子の揃ってあのルーズ・ソックスが続いていることは真に醜悪である。高校生という人生で最も大切な青春時代を、個性に目覚めることなく大衆の中に埋没させてしまうようなしつけと教育は一体どうしたものであろう。

 長髪や茶髪がなぜいけないのか、その手入れに無駄な時間を費やすからか、そんなことは本人の自覚に任せればよい。だがいかに私でもあの「顔黒」(ガングロ)は戴けない、いかがなものであろうか。それは余りにも突飛で、他人に興味本位にとられてしまうからである。基準の境界線はここら当たりにありそうである

 とまれ、今や情報技術(IT)革命、デジタル革命時代、明治維新や大二次世界大戦(大東亜戦争)の敗戦による日本国家の崩壊と再出発に比しての劣らない大変革の時代だ。古い国家・社会の構造、体制を変えると共に、個人個人の意識の変革が大きく求められている。

 

 

 

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