美保関沖事件殉職者慰霊塔顕彰護持会のホームページ



            
会長挨拶                     岡空研二  平成24年4月佳日

平成20年11月15日、鳥取県西部海友会の創立30周年記念に当たり、会員の老齢化よる同会の解散に伴い、新たに発足しました美保関沖事件殉職者慰霊塔顕彰護持会は、今日までの間、会の組織基盤の確立、追悼参拝式の充実など多くの実績を挙げられました初代会長、川端広海氏のご勇退により、この度、副会長職にありました私、岡空研二が第二代会長に就任することになり、ここにご挨拶申し上げます。

美保関沖事件は海軍10大事故の一つで、訓練、演習中の事故で120名に及ぶ最大数の犠牲者を出したことで広く知られております。

私ども
美保関沖事件殉職者慰霊塔顕彰護持会はこの悲惨な事件を風化させることのないよう、先達の例に倣い、毎年8月下旬に追悼、参拝式を実施し、これを後世に伝承すること目標に掲げております。特に、次世代を担う青少年の方々に対し、当時の国際情勢、我国の置かれた状況、猛訓練、演習の目的、内容などを伝え、国家安康ために殉じた英霊を追悼・顕彰する意義の理解を図るように努める所存であります。

会員の皆様、どうぞ、会の更なる結束に努め、会員の増強と共に、その裾野の拡大に心がけるにしようではありませんか。

最後に、ここ数年の追悼、参拝式は、新たに発見されました「幻の鎮魂歌」蕨と葦の殉難の歌の歌詞の朗読(境1中の女子生徒3名、境小学校の男子児童5名)およよび楽譜の演奏(境港ウインド・アンサンブル楽団)の便を図るため8月下旬の土日に挙行して参りましたが、本年は原点に戻り、命日(第84周忌)の8月24日(午前11時から1時間)に台場公園慰霊塔前で実施することと致しました(雨天の場合は「海とくらしの史料館内)。また8月24日から10日間にわたり「追悼展示」を行います。これは当時、美保湾に集結した連合艦隊63隻の各種艦艇を往時の姿に復元してジオラマ展示すると共に、各種の資料、文献、説明文など全てを一般公開致します。会場は「海とくらしの史料館」構内の白壁展示室(入館料不要)をお借りしました。大山の背景画の舞台装置を製作された画家の遠藤恵裕氏(境港市教育委員長)のお力添えもあり、更に、産経新聞鳥取支局からの協賛の申し出も頂いております。この追悼展示は多くの方々のご要望により開催するものであります。会員皆様のご協力を宜しくお願い申し上げます。

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トピックス



慰霊塔の傾斜問題への対応の考察結果の措置 



境港市教育委員会に対して「境港市文化財指定申請書」を提出、

        
境港市指定の文化財、「慰霊塔」を軍事遺跡として認定申請する

        申請者  四個団体・組織連名
                             
                    美保関沖事件殉職慰霊塔顕彰護持会、会長 岡空研二
                    慰霊塔護持協賛会、代表 南家久光
                    海軍クラブ美保錨会、会長 菊地英夫
                    海軍記念館美保準備室  主幹 松下 薫 



文化財の種類         記念物(軍事遺跡)
文化財の名称及び員数   美保関沖事件殉職者慰霊塔(忠魂碑)
その他参考とある事項    境港市指定文化財で、後世に残すべく重要な財産として表記されている
別添資料(由来、徴証等)

境港市文化財指定申請書 「由来、徴証、伝説、作者」の別添資料  (?016510)

慰霊塔(忠魂碑)の建設、および以降の経緯を通じて、その歴史的意義の認識

始めに、日本海新聞に記載された「慰霊塔傾く、補強か新設か、市、対応を考える」記事事事は実態を把握し、各種の資料を精査され、問題を提起された真に時宜を得た報道であった。市民の大きな関心を呼び起こしている。
 二年前に、海とくらしの史料館館長、南家久光氏が最初に指摘された塔の傾斜の危惧がこのような形で取り上げられたことは、当市で数少ない遺跡の保存と次世代への伝承を望む境港市民にとって極めて喜ばしいことである。

 

この慰霊塔(忠魂碑)は昭和2824日の深夜、美保関沖で演習中に起こった艦艇の二重衝突事故(美保関沖事件)後、在郷軍人会境町分会、境町青年団、西伯郡海軍班の主唱により「忠魂碑建設期成会を組織し、鳥取県補助金五百円、境町助成金二千円の後援を受け、高松宮、東伏見宮両殿下のご下賜金(四十円)を賜るなど全国各地の熱誠な協賛を得て、預金金利を含み計、一万三千五百三十四円の浄財で、工事費一万三千円、工期を昭和3826日から同年1130日とし、設計は岡田孝勇工学士(島根県出身)、施工は鴻池組で建設された。

 建設位置は、艦艇の二重衝突事故の殉難将兵の捜索、救助の本拠地とされた由緒ある台場の丘上である(土筆亭の隣接地)。塔の頂部の六角形のカプセル状の構造物(納骨室)の内部には、上道火葬場で荼毘にふされた数体の殉職者の遺骨,遺灰の一部を純銀製の箱に収め、その周囲に紅玉、水晶、真珠、瑪瑙など十四種の宝石と昭和年号の貨幣、および小銃弾を浄沙に混ぜて充填、コンクリートで密閉されている。建築概要記録が残っている。

 この塔は殉難将兵119名の墓標であり、また、駆逐艦「蕨」に衝突し、自責の念で自裁された二等巡洋艦「神通」艦長、水城 圭次(みずしろ けいじ)大佐の霊も合祀されている。水城大佐の霊はまた出雲大社教祖廟社に収められ合祀され、大佐の軍刀も奉納され宝物館に陳列されていた(現在は陳列から外され同館に保管されている)

塔の基部構造の局舎内に収められた砲身は大正末期の駆逐艦の備砲、40口径安式8p7(No.791)で局舎内に設置されていたためか、GHQの撤去指示を逃れ、風雨に晒されることなく良好な保存状態を保っている。同じく局舎内に保存されている浮遊爆雷缶(機雷)も良好な状態に維持されている。これは全国的に見て稀有のことで、これらは貴重な海軍の遺物である。呉から受領した50間の鉄連は敗戦の混乱期に盗奪、紛失したものと考えられる。

 塔に供える駆逐艦備砲の砲身など、「廃兵器の無償払下げに」関する境町長から呉鎮守府司令長官宛ての請願書、および海軍大臣岡田啓介海軍大将宛ての請願文書、および呉鎮守府からの払下げ品(砲身、機雷、鉄錬50)の通知文書の一連の記録が残されている。

 局舎の正面左の壁面に歴史学者、京都帝国大学教授、文学博士 三浦周行の追悼碑板が取付られている。また局舎の北面の壁の下部に大阪毎日新聞の事故速報が掲載された紙面の銅製碑板が取付けられていたが、戦後の混乱期に剥奪された(その痕跡がみられる)。同じものが島根半島東部の五本松公園内に建設された慰霊塔(平和記念塔)にもあったが、戦後の盗難を避け、美保神社に保管され現在も良好な状態に保たれている。この失われら銅製碑板を復元して奉納するための浄財募金活動が行われており、目標額二十万円に対して,現在(平成27年末)、十四万六千円のご寄付を戴いており、引続き募金活動を進めている。

 この碑板に彫刻された新聞報道は海軍の見事な情報公開の実が表されている。これは事故翌日、連合艦隊司令長官、加藤寛治大将が旗艦「長門」に報道機関の記者を招致し、事故の実相と被害について包み隠さずに発表された。海軍と国民との日頃の信頼関係を如実に表すものだ。事故の実態を知った美保関および境町の青年団員や漁民は積極的に殉難者の捜索、救助に立ち上がった。また、事故の原因、責任を明らかにする軍事法廷には各艦長,駆逐隊司令らの減刑を求める多くの国民の減刑陳情運動があった。過酷な海軍の訓練、演習を国民は多大の期待と激励の心情で見守るっていたことがわかる。

次に過去87年にわたる追悼式、慰霊祭等の実施の経緯は次の通りである。

1.昭和2831日、境町長主催の七日法要、「海軍殉職将兵追悼式」が面谷酒造東側の台場公園内で仏式で行なわれた。境町長から松江連隊区司令官宛ての「海軍殉難将卒追悼会へのご参列願い」、来賓に対するご参列願いの案内文書記録および写真記録が残されている。また、祭祀として用いられた大きな位牌が三年前に花町の般若寺の蔵の中で発見され、平成25年の追悼参拝式で80年ぶりに公開,披露された

2.昭和31216日、寒風吹き荒び霰交じる午前11時より忠魂碑除幕式が神式で執行された。忠魂碑前で撮影された記念写真には、前列中央に建設期成会長、作野諒之助陸軍軍医、足立民一郎、熊本某、面谷誠、影山善次郎、戸田海軍准士官の諸氏の姿が見られる。式は「派遣の駆逐艦「樅」の儀仗兵の参列と、鳥取県知事久保豊四郎閣下その他顕官諸賢の臨席の下、忠魂歌を合唱、十数名の遺族を含む四百余名の参列者一同、涙新たに殉職者の英霊を弔ふたり」、との記録が残されている。

3.昭和48月、連合艦隊六十余隻が総合演習途次、美保湾に終結(旗艦は「山城」)。境町は町を挙げて歓迎。昭和四年の記念スタンプを押した写真セットが残されている。連合艦隊港外仮泊と同時に挙行された三年祭には、司令長官谷口尚眞大将以下各艦長を初め多数の将星(陸海軍大将、中将、少将二十四名)参列の下に盛大に挙行せられ荘厳裏に終了せり、と記録されている。

また、昭和3年から昭和11年までの、閑院宮春仁親王殿下、賀陽宮恒憲王殿下、澄宮崇仁王殿下、高松宮宣仁親王殿下、久邇宮大妃殿下の五名の宮殿下、大蔵大臣、内務大臣、鉄道大臣、宮内省諸陵頭、鳥取県知事および三十余名の陸海海軍大将、中将、少将(海軍が主)の参拝者芳名録が残されている。

4.昭和11年、在郷軍人会結成令により、境海軍在郷軍人会「境海友会」が発足、海軍機関特務中尉戸田繁蔵氏が佐世保軍部から連合艦隊司令長官、海軍大将高橋三吉提督の揮毫(境海友会 高橋三吉)入りの軍艦旗を交付された。事後、境海友会が敗戦前の昭和19年までこの軍艦旗を掲げて毎年追悼、参拝式を実施してきた。麻製の古色を帯びた軍艦旗は現存、慎重に管理されている。

 高橋三吉大将は美保関沖事件当時、連合艦隊参謀長を務め、戦艦「長門」に座乗し、艦艇二重衝突事故に対面している。さらに、演習開始直前、夜間、無灯火、雷撃演習を今まで実施してなかった第27駆逐隊を命令により所属区分の甲軍(防御側)から乙軍(攻撃側)に急遽配置変更するのは極めて危険であるとの第一水雷戦隊参謀小沢治三郎中佐の意見具申を司令長官に進達しなかったことが記録されている。揮毫入りの軍艦旗には忠魂碑の清掃、追悼式を行う「境海友会」に対して特別な配慮があったのか。(注:小沢中佐は海上指揮官として海軍の第一人者として評価され、最後の連合艦隊司令長官を務めた)

5.昭和11年に実施された在郷軍人境海友会主催の追悼式には米中、米女、境尋常高等小学校からの生徒、児童が多数参列し、鎮魂歌「葦と蕨の殉難の歌」が合唱された。米中の三島寿雄氏、境小の面谷則夫氏が参加されている。三島、面谷両氏の証言。 また郷土の女流作家、矢倉節子著作の「西小路界隈」に「葦と蕨の殉難の歌」を歌った感想が述べられている。「荘重な調べで、心に残る鎮魂歌である」と。同書に収録されていた「葦と蕨の殉難の歌」の歌詞と簡単な五線譜をもとに、境港ウインドアンサンブル楽団の指揮者、松本幸永団長が簡単な楽譜から見事に編曲した「葦と蕨の殉難の歌」(幻の鎮魂歌と云われていた)を平成25年の第85周忌の追悼参拝式で演奏、参列者に大きな感動を与えた。この曲の完成に至るまで、昭和11年の10周年追悼式で実際に歌われた面谷則夫氏に慰霊塔の前で歌って頂き、その録音を参考に荘重感を出すなど編曲に多くのご苦労があった。

6.昭和17826日、境町主催の「海軍蕨葦殉難将士十五年祭、大東亜戦争戦果報告祭」が多数の遺族を招いて神式で行われた。時節柄、「尽忠報国」、「忠勇義烈」の大きな幟がはためいている写真および式序(式次第)の記録が残されている。舞鶴軍港から駆逐艦一隻が派遣された。軍艦の一般公開、海軍軍楽隊の市中行進、海軍写真展示会、台場公園での軍楽隊演奏会など各種の催しがあった。

7.昭和22年、昭和天皇の境町巡行(境港市35周年史に記載)に際し、台場の無標の塔にお立ち寄りがあった。陛下は「忠魂碑」の青銅浮彫文字が剥ぎ取られた無残な姿の塔をご覧になった。郷土の写真家、植田正司氏が高性能カメラ、ライカを用いて撮影した陛下の近影スナップが残されている。このお立ち寄りの事実は境町史および境港市史には一切記録されてない。

8.戦後、呉鎮守府から復員した境港市在住の坂本定雄、山田誠一、梶川石太郎、島田啓、角本専次、角孝の六名が、昭和20年代末、在郷軍人「境海友会」の奉持する軍艦旗を継承して「境海友会」を再興、以後、毎年527日の海軍記念日に伝統の軍歌旗を奉持し、山田誠一氏が読経を唱えるなど密かな供養が続けられた。

9.昭和32年、境港市が事故三十周年慰霊祭を実施。元鳥取県官選知事で、防衛庁統合幕僚会議議長の林敬三氏の書になる「慰霊塔」の青銅浮彫の取付補修工事が行われた。補修費は十一万五千円、設計は境港市建設課、施工は境港土建梶B

10.昭和52年、境港市主催の事故五十周年慰霊祭が行われた。「蕨」艦長の五十嵐中佐のご子息、五十嵐邁氏を含むご遺遺族を招致して行われた。五十嵐邁氏は海上自衛隊派遣の護衛艦に乗艦、事故現場の海上で花束贈呈がおこなわれ、航空自衛隊美保基地からもこの洋上追悼式に上空から参加し、C-46輸送機の編隊飛行が実施された。

11.昭和545月、鳥取県西部地区の各種海軍団体を糾合して結成した「鳥取県西部海友会」の発足に際し、この軍艦旗を引継ぎ、会員の高齢化のため平成201115日に解散するまで30年間にわたり毎年海軍記念日の527日に慰霊祭が実施してきた(創立10周年当の在籍会員は120名を数えた)。「鳥取県西部海友会」は10周年、および20周年の各記念事業として、石造の「焼香台」および「艦艇衝突配置図」碑板を奉納した(共に、境港市中田石材工作所製作)
 また、第二代会長、坂本定雄氏が自費で三浦周行文学博士書の碑文の墨入れを外注(風化で文字の判読不能のため)、第二代副会長、山崎光男氏の作業で国旗掲揚台のポール頂部の滑車を取り換える(錆び付きで掲揚不能のため)など自主的に設備の整備が実施された。


 鳥取県西部海友会は衆議院議員相沢英之氏を顧問に仰ぎ、慰霊塔の追悼参拝式、護衛艦入港歓迎アットホーム(歓迎、激励レセプション)を独自で長年にわたり実施し、安田市長、下西市議会議長、広島、栗原両県議会議員(後に安田優子、森岡俊夫県会議員)を始め多くの市民参加で乗員の慰労、激励を行ってきた。これら慰霊祭の実施および防衛協力事業に対して自衛隊鳥取地方連絡部長、海上自衛隊舞鶴地方総監、海上幕僚長から感謝状が授与され、また自衛隊観艦式への招待、小泉首相主催の「桜を見る会」(新宿御苑)に招待される栄を賜った。

平成111020、北朝鮮のミサイル発射の監視のため日本海に派遣された米海軍駆逐艦「クッシング」(9700) の境港寄港に際し、艦長、マーチン・スチュアート・サイモン中佐に慰霊塔参拝を勧め、「艦艇衝突配置図」を説明するなど、乗員との交流を行った。ロバート・ヨルダン米国総領事(在大阪)および同総領事館、天野到政治・経済専門官が慰霊塔に同行立会した。境港市から外事顧問、梅谷陽治氏が艦内会議に参加され、艦上レセプションでの通訳を勤められた。艦長、マーチン・スチュアート・サイモン中佐は、この演習事故がワシントン軍縮条約の米英日の主力艦保有の10106の比率の結果に根源を置くことに多大の関心を寄せ、熱心に説明に聞き入っていた。

12.平成18319日、松江市観光協会文化プロジューサ高橋一清氏(元文芸春秋編集長)の先導で五十風邁氏が実姉の水利笑子様と共に慰霊塔を参拝された。鳥取県西部海友会松下薫会長、山崎光男副会長が立会、「鎮魂の鐘」を記念品として贈呈した。翌日、松江市一畑ホテルで高橋一清氏主催の「美保関のかなたへ」の文庫本出版記念会が開催され、海友会役員や賛助会員の門永朝重氏、遠藤量氏、黒目友則夫妻、境港市根平教育長、境港市役所福祉課職員、郷土史研究家の木村亘氏など多数が参加した。

13.平成19819日、境港市主催の「美保関沖海難事故80周年追悼式」が行われた。福岡、鹿児島在のご遺族三家族、五名の参加があり、式は境港市役所の有志のバンドの演奏下で厳かに行われた。海上自衛隊舞鶴地方総監部からは総監代理で幕僚長、鮒田海将捕が参列された。

同日「葦蕨殉職者八十周年追悼展示」が海とくらしの史料館内で鳥取県西部海友会の協賛で行われた。展示にはこの事件の研究家、高橋一清氏が自ら足を運んで収集し、境港市に提供された殉難者の遺影が初公開された。中村勝治境港市長、舞鶴総監部幕僚長鮒田海将捕も数十隻のモデル艦を配置した演習状況パノラマ展示を熱心に見学された。

14.平成201115日、鳥取県西部海友会の創立30周年記念式後の解散式と同時に立ち上げた「美保関沖事件慰霊塔顕彰護持会」および「海軍クラブ美保錨会」が鳥取県西部海友会の行事を継承し、昭和11年、佐世保軍需部から受領した伝統の軍艦旗を奉持した。両会は平成21年から毎年824日に追悼参拝式を共催し、現在に至っている。

式は中村市長、舞鶴地方総監(名代)の追悼の言葉を始め、赤沢衆議院議員、舞立参議院議員、安田、森岡両県会議員県、自衛隊鳥取地方協力本部長、航空自衛隊美保基地司令、陸上自衛隊米子駐屯地司令、航空自衛隊高尾山分屯基地司令など来賓を含め、100余名の参列の下、境港ウインドアンサンブル楽団の演奏下で行われている。

昨年来、境港市寿クラブ女子委員会委員長以下多数の婦人の参加があり。参列者数は毎年増加している。また中学生の自主参加ボランティア(受付、来賓案内、献花係、会場の整理作業等)も定着してきた。これらの中学生に対しては、郷土史の補修教育の一環として、資料を作成、配布、説明している。



その他
 平成21107日、海上自衛隊舞鶴地方総監、宮浦弘児海将が視察旅行の途次、慰霊塔に立寄られ参拝された。これは美保関沖事件慰霊塔顕彰護持会および海軍クラブ美保錨会が共催し行う初めての追悼参拝式に参列の案内を受け、「日程上、参加できなかったので、今次の視察の日程に入れました」とのお言葉であった。慰霊塔顕彰護持会の川端広海会長、松下薫事務局長、海軍クラブ美保錨会の菊地英夫会長、福本鉄郎事務局長が立会した。山陰放送テレビの取材があり、宮浦総監および川端会長のコメンが放映された。総監、宮浦弘児海将のコメントは、「尊い犠牲の上に海上自衛隊がある、との思いを強くした。事故の教訓を大事にしないといけない」と話された。参拝後、割烹「峰」の喫茶部で小憩、懇談。総監をお見送りした。


松江市観光協会文化プロジューサ、高橋一清氏(元文芸春秋者編集長)のご協力については、松江市カラコロ工房における文化サロンで「美保関事件」に関するトークショウの企画、実施(平成25821)、慰霊祭に関する新聞(毎日新聞連載「近景,遠景」)記事に掲載など、式典参加に加え多大のご理解、協力を賜っている。

平成2846日、海上自衛隊舞鶴地方総監、菊池聡海将主催の恒例の「観桜会」(市民と海上自衛隊との夕べ)に参加した海軍クラブ美保錨会、菊池英夫会長および慰霊塔顕彰護持会、岡空研二会長が、総監部監理部長に「慰霊塔の歴史的経緯および傾斜問題の対応について」の文書を提示、説明した。

 この外、毎年の追悼参拝式において、海軍記念館準備室保管の膨大な記録の中から、また境港市前市史編纂室長小灘浩氏、前教育長根平雄一郎氏らが新たに発見された貴重な文書記録の展示、米子市在住の松本清太郎氏保有の「贈ワラビ」の刻み文字のある一刀彫、根来塗の三重の塔(30p)が公開された。この朱塗りの三重の塔は昭和2831日に行われた七日法要の祭事に用いられたと見られる具物で、海中に供養投入され、長期間美保湾を回遊して中浜の浜辺に打ち上げられたものと推測される。埋もれた新たな資料の発見は現在も続いている。


補足

最後に、この重大事故を引き起こした昭和初期の海軍大演習の実態を森川上等飛行兵の手記を参考にして述べ、この忠魂碑にかける海軍の決意と懺悔の心情にふれる。

この大演習は昭和二年七月十七日、艦隊錨地である佐伯湾を抜錨し、奄美大島に向かい、ここを根拠地として約一ヶ月にわたり猛烈な戦技演習を連日行ったが、加藤司令長官は、停泊中も敵艦隊と潜水艦の夜間攻撃に備える警戒訓練として、舷窓の鉄窓を閉めきるという厳重な灯火管制を命じた。真夏、それも奄美大島沖の海域である。酷暑のため艦内は蒸し風呂のようになり、強健を誇る艦隊将兵も倒れる者が続出した。

八月一日、危惧されていた事故が発生した。機雷敷設艦「常盤」が、搭載していた機雷が突然の爆発により大火災を起こし、常盤の上甲板は爆発によりスクラップ状態となり、峰木中佐、中庭中佐、帖中佐以下三十八名が殉職、四十七名が軽重傷を負った(従来の機雷敷設訓練は模擬機雷を使用)。しかし常盤の爆発事故は、まだ序の口であった。戦艦「陸奥」搭載の水上偵察機パイロット、森川上等飛行兵は「美保関沖事件」の惨劇を目の当たりすることになった。  中略

衝突事故により演習は中止となり、事故現場付近の艦艇は救難作業を開始した。森川は捜索命令を受け、舞鶴から飛来した八機の海軍機と共に行方不明者の探索に当たった。 この事件後、加藤司令長官は舞鶴において、「此の度の為、意気を阻喪することなく、我が海軍の為、絶対必要なる此の戦闘訓練に尽される様、切望してやみません」と艦隊将兵に訓示し、敦賀、函館、横須賀などに寄港しながら移動戦技訓練を続けた。

連合艦隊先任参謀近藤信竹中佐が加藤寛治司令長官の意図のもとに策定したこの度の過ぎた演習計画は海軍部内でも噂されたが、大鑑巨砲主義、軍縮反対を唱える海軍軍令部部長(後に総長)伏見宮 博恭王殿下および東郷平八郎海軍元帥を信奉する艦隊派の旗頭である加藤大将の猛訓練はその後も続き、東郷元帥の100100中の砲一門は1001中の砲100門に勝る」、「断じて行えば鬼神もこれを避く」式の精神論を猛訓練で具現することを基調とした「月月火水木金金」の言葉を生み出し、海軍を信頼、期待し声援を送る国民の間に広く流布した。この忠魂碑は、海軍の歴史を刻み、精神主義に立脚した猛訓練の結果生起したあらゆる事象の具像的象徴なのである。

この忠魂碑は科学技術の進展に対応し、明治以来の海戦要綱を修正することなく、日露戦争時の日本海海戦の主力艦決戦を金科玉楼とする教条主義に対する反省、合理性および安全性を欠いた演習計画の犠牲となった事故の殉職者に対する追悼、慰霊の墓標である。国の史跡として、国家の安康、海上安全を祈念する場として永久に保存すべきである。

結言

以上、記述の通り、この塔は,連合艦隊大演習中の演習事故の殉職者の墓標であると共に、貴重な海軍の遺物を含み、海軍の歴史的記録を刻んだ遺跡であることがわかる。慰霊塔の傾斜問題の対応は、この塔の歴史を認識することがその第一歩である。この塔は、山陰最古の鉄筋コンクリート造りの歴史的建築物としての境港市指定の文化財であると同時に、その内容および多くの記録文書を含め、まずは、境港市に対して海軍の遺跡(軍事遺跡)としての指定を求め、次に、1995(平成7)36日、文化財保護法の指定基準の改正の趣旨に基づき、国の史跡指定を受けられるよう最大の努力をすべきである。 手続は塔が現在位置において現状を維持している間に行う事が重要である。


 傾斜に対する対応は、由緒ある現在位置における補強処置を希求し、その費用は国庫の支援を受けるべく官民挙げての最大の努力が望まれる。

文責:申請4個団体代表 海軍記念館美保準備室主幹 松下薫(元鳥取家西部海友会会長)

 




添付資料(図面、写真、資料)一覧

  

   

 

文化財保護法の指定基準の改正(平成736)に至る経緯

1980年代半ば頃から軍事遺跡(戦争遺跡)の調査、記録、保存運動が行われてきた。1987年、戦争体験を記録する会「大阪の戦争遺跡ガイドブッ」が刊行された。自治体による文化財指定の最古は1977年、沖縄県伊江島の公益質屋の指定である。

爾後、各県において多くの戦争遺跡が指定されてきたが、問題は、特に近代の建築遺構などと戦争遺跡がかち合う場合、戦争遺跡の調査、保存が軽視されがちなのも事実である。 

ここにおいて、近代の文化遺産の適切な保護を図るため、1995(平成7)、文化財保護法の指定基準が改正され、第二次世界大戦終結頃までの政治、経済、文化、社会等あらゆる分野における重要な遺跡が史跡指定の対象となった。

この改正を受けて、原爆ドームが史跡に指定され、国内法での保護が前提であるユネスコの世界遺産に登録されることになった。
 また、ユネスコ記憶遺産(1992年開設)次ぎの記録文書や記録画が登録された。

・2011年  山本作衛門による筑豊炭鉱記録画
・2013年
・  慶長遣欧使節関係資料(スペインとの共同推薦)、  御堂関白記

・2015年  東寺百合文書  

舞鶴への生還(シベリア抑留等「日本人の本国への引揚記録) 申請者 舞鶴市

現在、東京オリンピックに備えての歴史的遺産の指定の促進が図られている。

優れた歴史、文化遺産の適正な保存と活用のため、国指定の遺跡、記念物等について、「観光振興計画」に基づき観光案内所、説明板の整備を図る。国はオリンピックまでに100個所の指定を予定している。

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参考

史跡認定の促進 

 史跡(非常用漢字史蹟)とは貝塚、集落跡、城跡古墳などの遺跡のうち歴史学術上価値の高いものを指し、自治体によって指定される。この語は一般には遺跡全般と同義で現在においてもその意味で使用される場合も多いが、日本においては1919史蹟名勝天然紀念物保存法以降、特に法律で指定保護されている遺跡を指すようになり、現在では狭義の「史跡」は文化財の種別の一つとして文化財保護法109条第1項に規定されている

 近代の文化遺産の適切な保護を図るため、1995(平成7年)36日、指定基準が改正され、第二次世界大戦終結頃までの政治、経済、文化、社会等あらゆる分野における重要な遺跡が史跡指定の対象となった。この改正を受けて同年6月、原爆ドームが史跡に指定され、国内法での法的保護が前提であるユネスコ世界遺産に登録されることとなった



地方公共団体指定の史跡

 文化財保護法182条第2項は、次のとおり規定している。

 地方公共団体は、条例の定めるところにより、重要文化財、重要無形文化財、重要有形民俗文化財、重要無形民俗文化財及び史跡名勝天然記念物以外の文化財で当該地方公共団体の区域内に存するもののうち重要なものを指定して、その保存及び活用のため必要な措置を講ずることができる。

 この規定に基づき、地方公共団体は「文化財保護条例」等の名称の条例を制定して、遺跡に対する史跡指定を行っている。ただしこの規定は、国の史跡に指定されていないものに対して地方公共団体が指定すると解釈されるため、地方指定の史跡が国指定の史跡となった場合は地方指定は解除される。地方公共団体の制度はおおむね国の制度に準じたものであるが、それぞれの実情に応じた制度が定められている。例えば、東京都文化財保護条例第33条は、次のとおり規定している。

 教育委員会は、都の区域内に存する記念物(法第百九条第一項の規定により、史跡、名勝又は天然記念物に指定されたものを除く。)のうち、都にとつて重要なものを、東京都指定史跡(以下「都指定史跡」という。)、東京都指定旧跡(以下「都指定旧跡」という。)、東京都指定名勝又は東京都指定天然記念物(以下「都指定天然記念物」という。)(以下これらを「都指定史跡旧跡名勝天然記念物」と総称する。)に指定することができる。



3.遺跡と史跡の関係

 遺跡とは、考古学上で人類の痕跡を残すものの場所を指す。具体的には土器や鉄器などの遺物、竪穴式住居や古墳などの遺構に分けられる。遺跡には時代の概念は関係なく、人類の歴史に係る物なら全て含む。極論を言へば、つい昨日の事でも遺跡として取り上げられる可能性もあるということだ。
 日本の文化遺産保護制度の体系における「史跡」とは、貝塚、古墳、都城跡、城跡、旧宅その他の遺跡の中で、歴史上または学術上価値が高いと認められ保護が必要なものについて、国および地方公共団体(都道府県、区市町村)が指定を行ったものである。
 文化財保護法は、貝塚、古墳をはじめとする遺跡のうち日本国にとって歴史上または学術価値の高いものを、文部科学大臣が「史跡」および「特別史跡」の名称で指定することができると規定している。地方公共団体においては、国の指定から漏れたものに対して、それぞれ条例に基づいて指定を行っている。

 地方公共団体の制度はおおむね国の制度に準じたものであるが、それぞれの考え方に応じた制度が設けられており、例えば、東京都では「旧跡」、横浜市では「地域「文化財」などといった、文化財保護法には見られない指定等の区分が設けられている場合もある。名称も、「県史跡」「県指定史跡」など、地方公共団体によりそれぞれである。つまり、史跡とは国や地方公共団体が指定した遺跡ということになる。






境港市文化財保護条令、同施規則

(目的)第1条 この規則は、境港市文化財保護条例(昭和60年条例第6号。以下「条例」という。)の施行に関し、必要な事項を定めることを目的とする。

(指定申請)第2条 文化財の指定を受けようとする者は、境港市文化財指定申請書(様式第1号)を境港市教育委員会(以下「教育委員会」という。)に提出するものとす(指定

第3条
教育委員会は、条例第5条の規定により文化財の指定をしたときは、境港市文化財指定書様式第2号。以下「指定書」という。)を所有者、占有者及び保持者又は保持団体(以下「所有者等」という。)に交付するものとする。

2.教育委員会は、条例第5条第2項による保持者の認定をしたときは認定書(様式第3号)を交付するものとする。


(解除)第4条 教育委員会は、条例第6条第1項の規定により文化財の指定を解除したときは、境港市文化財指定解除通知書(様式第4号)により所有者等に通知するものとする 2 所有者等が、前項による解除通知を受けたとき、又は条例第6条第2項の規定に該当するに至ったときは、速やかに指定書を教育委員会に返納しなければならない。
  3 教育委員会が条例第6条第1項の規定により無形文化財の指定を解除したときは、保持者は速やかに認定書を教育委員会に返納しなければならない。

(指定書の再交付)第5条 所有者等が、指定書を紛失、又はき損したときは、教育委員会に境港市指定文化財指定書再交付申請書(様式第5号)を提出し、指定書の再交付を受けることができる。
 2 指定書の再交付を受けたときは、先に受けた指定書は、その効力を失うものとする

所有者等の変更届出等)

第6条 条例第9条第1項及び第2項の規定による届出は、境港市指定文化財所有者等変更届(様式第6号)によるものとする。

 2 条例第9条第3項の規定による届出は、境港市指定文化財保持者(保持団体)事故届(様式第7号)によるものとする。

(滅失等第7条 条例第10第1号及び第3号の規定による届出は、境港市指定文化財所在場所変更届(様式第8号)によるものとする。
2 条例第10第2号の規定による届出は、境港市指定文化財滅失(き損、亡失、盗難)届(様式第9号)によるものとする。

現状変更許可申請等)第8条 所有者等が、条例第11条第1項の規定による現状変更等について許可を受けようとするときは、境港市指定文化財現状変更許可申請書(様式第10)を現状を変更しようとする日の30日前までに教育委員会に提出しなければならない。

 2教育委員会は、前項の申請を受けたときは、速やかにその申請内容を審査し、許可することに決定したものについては、当該申請者に境港市指定文化財現状変更許可書(様式第11)を交付するものとする。

(修理の届出)第9条 所有者等が、条例第12の規定による文化財の修理をしようとするときは、境港市指定文化財修理届(様式第12)を教育委員会に提出しなければならない。

(現状変更等の完了報告)10 前2条の規定による現状変更並びに修理が完了したときは、速やかに境港市指定文化財現状変更(修理)完了届(様式第13)を教育委員会に提出しなければならない。

(補助金の申請)11 所有者等が、条例第16の規定による補助金を受けようとするときは、境港市補助金等交付規則(昭和33年規則第10号)の例による。

(公開)12 条例第17の規定による公開のために要する費用は、市の負担とする。

(文化財台帳)13 教育委員会は、次の各号に掲げる事項に記載した文化財台帳を備え、文化財の保全活用の状況を明らかにしておくものとする。

(文化財保護審議会)
第14 条例第18条の規定に基づき設置する境港市文化財保護審議会(以下「審議会」という。)の委員は、学識経験のあるもののうちから教育委員会が、委嘱又は任命する。

15 審議会の任務は次のとおりとする。

 (1)文化財の指定及び認定並びに解除に関して、調査し、意見を述べること。
 () 指定文化財の保護、保存及び活用に関すること。
 (3) その他文化財に関すること

第16 委員の任期は2年とし、再任を妨げない。

 2 補欠委員の任期は、前任者の残任期間とする。
 
3 条例第18条第3項の規定に基づく委員(以下「臨時委員」という。)の任期は、特定の事項を調査するため必要な期間とする。

17 審議会に会長及び副会長各1名を置く。

 2.会長及び副会長は、委員のうちから互選する。

  3会長は会務を総理し、審議会を代表する。

  4.副会長は、会長を補佐し、会長の事故あるとき又は会長が欠けたときはその職務を代理する。

  5.会長及び副会長の任期は1年とする。

18 審議会の会議は、会長が招集し、会長が議長となる。

  2.審議会は、委員の半数以上が出席しなければ会議を開くことができない。

  3.会議の議事は、出席委員の過半数で決し、可否同数のときは議長の決するところによる。

(費用弁償)19 委員及び臨時委員に支給する旅費の額は、境港市職員等の旅費に関する条例(昭和34年条例第38号)別表第2に定める額とする。

附 則この規則は、昭和60年4月1日から施行する。

附 則(昭和62年3月31日教委規則第1号)

附 則(平成元年7月31日教委規則第10号)

この規則は、公布の日から施行する。

附 則(平成9年1月31日教委規則第1号)

(施行期日)

 1.この規則は、公布の日から施行し、平成8年4月1日から適用する。

(経過措置)2. この規則の施行の際、現に敬称に殿を用いて作成されている用紙は、当分の間、使用することができる。


     

軍事遺跡

 戦争の痕跡、戦跡、戦蹟、戦争のため造られた施設や、戦争で被害を受けた建物なので、現在もそのまま遺構として残っているものを含む。かっての戦争お時代を物語る遺跡であり、後世に伝えることで歴史の生の教材になりうる。日本では1980年代半ば頃から、戦争体験を伝える一環として、各地の戦争遺跡の調査や記録、保存運動などが行われてきた。自治体による文化財指定の最古は1977年の沖縄県伊江島公益の指定である。

 第二次世界大戦期のものが多いが、西南戦争の戦跡なども含まれる。近年では保存措置が講じられたり、文化財として指定される事例もでている。しかしながら、その価値が理解されているとは言えず、特に、近世の建築遺構と戦争遺跡がかち合う場合、戦争遺跡の調査、保存が軽視されがちなのも事実である。

近現代の軍事遺跡認定済の例

軍事関係施設

 近衛師団司令部庁舎、猿島砲台、満州開拓青少年義勇軍訓練所、帝国陸軍大阪第四師団司令部庁舎、大阪砲兵工廠、姫路第十師団兵器、被服庫、海軍兵学校、善通寺偕行社、支那囲壁砲台、金沢陸軍兵器支廠、第九師団司令部、大湊海軍通信隊根室分遣所

その他の戦争遺跡

 里山地下軍事工場、中山半地下軍事工場、川西航空機姫路製作所工場、松代防空壕大本営、浅川地下壕、掩体、タコ壺

被災建造物

 日立航空機立川工場変電所、半田赤レンガ建物、原爆ドーム、ひめゆりの塔。





美保関沖事件殉職者慰霊塔顕彰護持会ホームページ」に未収録の新たに発見された分

                             
                        
                 

                       忠魂碑参拝者芳名録(昭和3年ー昭和11年)

閑院宮春仁親王殿下を含む5名の宮殿下、鳥取、岡山両県知事、大蔵大臣、内務大臣、鉄道大臣、そして20名の海軍大将、中将、少将および13名の陸軍大将、中将、少将の
の官氏名が読み取られる。


新たな発見(平成二十八年五月)

・戦艦「陸奥」搭載の水上偵察機のパイロットの森川上等飛行兵の手記.(本州を一周する大演習の規模、遭難者の捜索、舞鶴における加藤司令長官の声涙こもる訓示。)

・巡洋艦「神通」」艦長、故水城大佐の霊が出雲大社に合祀され、軍刀が奉納された事実、および一周祭に長野県から大佐の厳父が鎮祭された記事をご送付して下さった匿名のお方に感謝申しあげます。出雲大社宝物館に問い合わせて確認いたしました (5月12日)。

   
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アーカイブ

平成26年


 「第六回
現代維新を実現する全国同志のつどい米子大会」に参加
                                        
11月9日、   松下 薫  福本鉄郎


 今回、紀念講演「大和心の甦り」を行う今岡祐一氏(実行委員長、日本会議鳥取県本部会長)からのご案内状を戴き、参加させて頂きました。今岡氏には慰霊塔顕彰護持会の行う追悼参拝式にここ数年連続してご参加を戴いており、今回のご案内を受け是非とも講演を拝聴致したいと考え、海軍クラブ美保錨会の福本鉄郎事務局長を御誘いしての参加でした。
 講演の主旨、その大義名分は筋が通り、悲憤慷慨する点、および進めるべき方針の説明には力が入り、雄叫びに似た叫びとなり、齢九十歳を越えた人物とは思われない力強いものでありました。
続く「決議文朗読」、「「結びの挨拶」共に、今岡氏を教祖に仰ぐ役員各位がこれまた絶叫をもって己の信念を吐露されていました。
  
 生憎、雨天下のためか、参加人員が少なくやや淋しい想いでしたが、主催者側の熱意は充分に感じられ。各弁士は言うべきことを力一杯言ったとの満足感に溢れておられました。


           

            今岡祐一氏の講演「大和心の甦り」60分                                          会場にて


編集後記:: 京城帝国大学出身の今岡祐一氏は90歳を超す御年ながら、朗々たる声量で獅子吼され、そのご熱意には頭の下がる想いである。せっかくの集いの精神を時世代に継承するには、学生、青年層およびご婦人方の賛同、理解を図ることが望まれる。





平成26年度

               

                 
第86回 美保関沖事件殉職者追悼参拝式

                                 
慰霊塔顕彰護持会および海軍クラブ美保錨会 共催
                                                             
平成26年8月24日 
                                                                   
海とくらしの資料館内


                                         
式次第


                            
司会進行   慰霊塔顕彰護持会理事 高尾佳孝 




                           
1. 開式の挨拶  慰霊塔顕彰護持会  岡空研二会長

                           2
. 国旗掲揚 半旗  (国歌演奏)  (海軍クラブ美保錨会 山下光良会員)

                           
3. 殉職者に捧げる追悼演奏:「軍艦行進曲」、鎮魂歌「葦と蕨の7殉難の歌」
                                 (さかいみなとウインドアンサンブル楽団、
松本幸永団長指揮
)   
                                 4. 黙祷 「海ゆかば」演奏

                           5. .追悼の言葉 海軍クラブ美保錨会 菊地英夫会長
                                      
境港市 中村勝治市長
                                      海上自衛隊舞鶴地方総監 井上 力 海将

                           
6. 追悼電報の披露  海軍クラブ美保錨会  佐々木憲四郎会
                           
                           7. 献花   (海軍儀制曲「海ゆかば」演奏)


                          
 8. 国旗降下 (国歌演奏))  (海軍クラブ美保錨会  山下光良会員
                                


                          
 9. 閉式の言葉   海軍クラブ美保錨副会長 矢田二郎


                                  散会     「ふるさと」 演奏


   
スナップ写真撮影 松下昭宣 顕彰護持会賛助会員


          
 
                            
  受付 (境1中の生徒のボランティアの参加)




     


              

                      官来賓参列者



追悼の言葉

本日、ここに第八十六回美保関沖事件殉職者追悼参拝式にあたり、美保関沖事件殉職者慰霊塔顕彰護持会及び海軍クラブ美保錨会を代表し、謹んで哀悼の誠を捧げます。

本事故は昭和二年八月二十四日、日本海軍の連合艦隊が暗夜の日本海で大演習を実施した際、味方部隊同士が二重衝突し、駆逐艦「蕨」の沈没、駆逐艦「葦」の鑑尾切断大破により乗員百十九名が殉職すると云う、日本海軍史上未曽有の大事故でありました。

当時は、ワシントン海軍軍縮会議により・アメリカ・イギリス・日本の主力艦の比率が5対5対3と定められ、日本海軍は装備の劣勢を克服するには猛訓練につぐ猛訓練が必要であるとし、夜間、無灯火で敵部隊に高速で接近し、魚雷攻撃を実施するという、極めて厳しい訓練を実施するなかで発生した事故であり、我国の存続と繁栄を願いつつ途半ばで殉職された方々に対して、痛恨の念を禁じ得ません。

私ども美保関事件殉職者慰霊塔顕彰護持会及び海軍クラブ美保錨会は、この慰霊塔の存在とその意味を広く知ってもらうと共に、この歴史的事実を記憶し、国家安泰のために殉じた英霊を追悼し顕彰することをここにお誓い申し上げ、追悼の言葉といたします。

                                      
                                                                                 平成二十六年八月二十四日

                                                                  海軍クラブ美保錨会会長 

                                                                         菊地英夫



             
 

          
挨拶  顕彰護持会 岡空研二会長                追悼の辞 海軍クラブ美保錨会 菊地英夫会長 

             

      
追悼の言葉 境港市長(佐々木邦広教育長 代読)         海上自衛隊舞鶴地方総監(鈴木拓哉2等海佐 代読)




 追悼電文の披露  海軍クラブ美保錨会 佐々木憲四郎 会員

                           


 黙祷(海ゆかば演奏)
                        
          



 献花 
海軍儀制曲「海ゆかば」演奏
   
   

  
海自舞鶴地方総監代理 鈴木拓哉 2海佐          赤沢亮正衆議院議員                 舞立昇治  参議院議員

                                      
            


                           

         

             
                 境港ういんどアンサンブル  松本幸永団長 指揮




 献花      海軍儀制曲「海ゆかば」 演奏


   
  自衛隊鳥取地方協力本部長 佐藤 健1陸佐      航空自衛隊第3輸送航空隊司令 高橋和久1空佐  陸上自衛隊第8普通科連隊副連隊長 小野正蔵2陸佐

   
 
航空自衛隊第7警戒隊長 内 康弘2空佐           安田優子 鳥取県県議会議員                森岡俊夫 鳥取県県議会議員 

   
  境港市教育委員会 遠藤恵裕 教育委員長               原 正美 様                            梅谷陽治 様

  
 
         
 遠藤 量様                                長栄善二郎 様                  境港市自衛隊父兄会  田中芳雄会長
 
  
   
 境港ことぶきクラブ女性委員会 庄司正子委員長       顕彰護持会 戸田泰男 会員               顕彰護持会 植田建造 会員

                            
                                 境1中 生徒     ボランティア
 
      
 



閉式の言葉
  
 海軍クラブ美保錨会 矢田二郎 副会長

                           

                              


  散会    「故郷」の演奏で来賓の皆様をお送りしました。






 新聞報道(日本海新聞社)

                     
                   
                     
             釘谷吉三 賛助会員 献花


          
        
     式の進行を見つめる事務局長と報道関係者                          開式前の式場

              
              




ホームページ 編集後記 (御礼状にかえて)


 天候の急変を考慮し、急遽、式場を「海とくらしの史料館」内に決定しました。連絡の不備でご迷惑をお掛けしました事をお詫びいたします。 当日は全館無料開放の日で、資料館長には多大な負担をお掛けした上でご協力を賜り感謝申しあげます。

 今回、賛助会員の遠藤 量氏(日本海新聞ペンクラブ会長)のご紹介で、境港ことぶきクラブ連合会女性委員会の庄司正子委員長以下10名の御婦人の参加があり、、また、境港ボランティア・センターのご協力を得て、境1中からのボランティア4名の参加が得られたことを喜んでいます。

 官側のご来賓の中で、自衛隊鳥取地方協力本部長、佐藤健1等陸佐、航空自衛隊第3輸送航空隊司令兼ねて美保基地司令、高橋和久1等空佐および航空自衛隊第7警戒隊長兼ねて高尾山分屯基地司令、内康弘2等空佐には、新着任早々のご多忙の中にご臨席を賜り、有り難う御座いました。

 陸上自衛隊第8普通科連隊副連隊長、小野正蔵2等陸佐からは清酒の献奉を賜りました。謹んで御礼申しあげます。境港市自衛隊父兄会の田中会長から昨年に続きご寄附を頂戴致し、また顕彰護持会の渡辺秀隆副会長((有)花のわたなべ)からは祭壇の生花、および献花の代金を寄付金として頂き、、更に、今般、顕彰護持会賛助会員にご登録された松下昭宣言氏から戴いた寄付金を、ともに「失われた銅製碑版の復元基金」として取扱い、芳名録に記入させて戴きました。有難う御座います。

 私どもは、お台場に聳える白亜の塔、慰霊塔の顕彰護持の精神および伝統ある追悼、参拝の儀を後世に伝承することを会設立の目的に掲げております。今般、中学生とご婦人方のご参加を得て、新たな芽生えを見ることができ、喜びに堪えません。 この輪をさらに広げるべく努力します。どうか皆様の更なるご理解とご協力を賜りますようお願い申上げします。

 今回、受付業務をお願いしました佐名木知信賛助会員(市議会議員)の積極的な働きかけで、新たに9名の賛助会員の登録を戴き、昨年登録の17名と併せて合計26名の協力者を得、真に心強い思いであります。 納付して頂きました年間会費の千円は追参拝式挙行の所要予算に,充当させて頂いています。

 賛助会員の方々には当会の所要行事や自衛隊関係の行事参加についてご案内させ戴きます。特に、春、秋の年二回開催される海上自衛隊舞鶴地方総監(海将)主催の音楽隊演奏下で進行する欧米様式レセプションには是非、一度はご案内致したいと考えております。「海軍クラブ美保錨会」のキーワードで検索できるホームページにその状況を収録してありますので、ご笑覧下さい。
 陸、海、空の自衛隊の基地開庁記念行事にご参加を希望される方は早目にご連絡頂ければ、爾後の連絡に便利と考えます。

  式典において参拝、献花のため、般若寺から大切なお位牌をお借りいたしました。お世話を戴いた同寺の檀家総代の面谷明俊様に御礼申しあげます。今後とも宜しくお願い申しあげます。

 境港ういんどアンサンブル楽団の皆様に御礼申しあげます。 追悼演奏は式次第の中で重要な要素に位置ずけられています。鎮魂歌「葦と蕨の難の歌」の演奏だけでも聞いてみたいとの参加者もある程です。また今回は、松本幸永団長の見事な編曲の海軍儀制曲第二号「海ゆかば」を献花の背景演奏に充てることができて喜んでおります。これは昭和2年9月1日、舞鶴鎮守府で行なわれました海軍合同慰霊祭で演奏された曲であります。泉下の諸霊に対し、良きご供養になったと感じました。有難う御座いました。 
 恒例の最終演奏練習見学、激励で参観させて戴きました際、海軍クラブ美保錨会菊地英夫会長が清涼飲料水一箱を贈呈されました。予算に計上しておりましたが、ご寄附との意向で処理いたしました。有難う御座います。

 最後になりましたが、市役所福祉課の山根課長補佐には鳥取県西部海友会以来、慰霊塔の追悼参拝式前日の慰霊塔周辺の草刈り、清掃作業にご協力を戴いており、今回も女子職員を含め清掃作業に参加して下さり、心から御礼申し上げます。

 またここ数年来、会場設定の椅子100脚、机などの貸出を賜っております(株)千代むすび本舗、そして机を覆うシーツの貸出を戴いております境港ライオンズクラブの事務局に対し、厚く御礼を申し上げます。

                



                                   

                                              
 「失われた銅製碑板」(レプリカ)  海軍記念館準備室提供
                                   
      復元奉納基金の浄財募金中

                                                                      
                                                    
       慰霊塔顕彰護持会および海軍クラブ美保錨会
                                                                                         相談役 松下 薫 






                                                完


   

特報

 松江市カラコロ工房内 「カラコロ文化サロン」で美保関沖事件についてのトークショー
              
8月21日、午后6時から8時

         

                 ご案内   高橋一清(松江観光文化プロジューサ) 


  8月24日、境港市台場公園で行われる慰霊塔の第86回の追悼参拝式の寸前の企画を感謝致します




              

  
                                             事件当時の悪天候に似た日の美保湾の実写写真にモデル艦艇を配置したテレビ放映の力作の一コマ(山陰放送テレビ



 文化サロンの集いは、松江観光の拠点「カラコロ工房」(旧日本銀行松江支店)の地下大金庫室の会場で行われ、高橋一清ファンの常連の方々が多数参加されていました、古都、松江の観光と文化の見事な融合を肌で感じとることができました。


 冒頭、山陰放送テレビの「あなたは美保関沖事件をしっていますか」のビデオの映写に始まり、高橋氏が事件の全体の流をお話される中でポイント、ポイントで質問を頂き、それに応えてお話しさせて戴く形で対話が進みました。

 長年にわたり猛訓練を重ねてきた駆逐艦の夜間、無灯火、近接魚雷攻撃は 「ソロモン沖海戦」以降、米軍のレーダの実用化、性能向上(特に、レーダスコープの機能、具体的には、地上、海面反射波の除去、移動目標表示(MTI)、残像効果のスコープ面塗料の開発など)による正確なレーダ管制射撃で殆ど無効になってしまった事実に話がおよび、科学技術の重要性を共に再認識しました。 

 それに関連して本来、外語の文科系統の私がレダー、コンピュータのエンジニアに変質した経緯を尋ねられ、 それは敗戦直後の通信電子の最新技術を学ぶには米国の技術図書、マニュアルを原文で讀むしかなく、 それをきっかけにエレクトロニクスの分野に進んだこと、そして現在こそ、日本が世界の中で生き残るには「技術立国」しかないとの私の持論をお話しさせて頂きました。 
このことは、技術者、特に、開発、設計に当たるエンジニアは欧米最新技術の特許文献を英語のサーバーを通して把握することが不可欠であり、経済の分野においても、将来予測には微積を含む数値計算の裏付けのない論理は通用しない世の中になっていること(英語はインターネットの公用語です)、また大学受験のためにはやくから生徒を理系、文系と分別する現在の我国の教育システムは抜本的に見直す必要があることを訴えることができました。

 境港市台場公園の慰霊塔前で行われる第85回追悼参拝式に話がおよび、新た発見されたた大きな(高さ約90センチ)の精霊位(位牌)七日法要会で用いられことの検証や、祭壇の横に掲げる軍艦旗に連合艦隊司令長官高橋三吉海軍大将の署名が縫い込まれていること、そして高橋三吉大将は少将の時、連合艦隊参謀長として旗艦「長門」に座乗し、この事故に対面し、捜索救難活動を見守っていた深い因縁についてお話しさせて戴きました(軍艦旗を持参し、皆様にその署名をお見せしました)。 祭壇にこの由緒ある軍艦旗を掲げるのは殉職者に対する供養のためと考えるからです。
 
最後に、お尋ねに応えて、現在なお調査、照合している三つの事項についてその概略をお話しさせて頂きました。それは、

1. 演習開始直前に甲軍(防御側)から急遽乙軍(攻撃側)に編入された第27駆逐隊(「蕨」、「葦」を含む)に対し、連合艦隊参謀が危険極まるとしてその命令指示の撤回を具申したが受諾されなかったことに関し、甲軍(防御側)が美保湾を抜錨(19:30)後、乙軍(攻撃側)が行動を発動する(22:00)まで2時間半の時間があったが、その間、攻撃側の各戦隊間の連携動作につい十分な調整がなさされた記録や事実が認められない。なぜなのか?



参考資料:「戦争の素顔」伊藤和正(光人社)「美保の関事件」の記述:

第一水雷戦隊の首席参謀の小沢三郎(「航空艦隊」の生みの親で、最後の連合艦隊司令長官)は、加藤寛治連合艦隊司令長官から発すせられた計画(いままで魚雷発射訓練ができなかった第一水雷戦隊の第27駆逐隊(菱、葦、蕨、菫)を第二水雷戦隊に組み入れて、訓練スケジュールを消化しようとするもの)を綿密に検討した結果、当時の練度から非常に無理があることを発見したのである。
仮想敵(甲軍)の第一戦隊(戦艦群)にはこれを護衛する第三戦隊(巡洋艦群)がおり、この妨害を突破して戦艦群を攻撃しなければならない。ところが味方(乙軍)にも第五戦隊(巡洋艦群)が援護に参加している。 両軍の巡洋艦群が高速で駆け回るなかを、駆逐艦が間隙を縫って突破しなければならない。
しかも指揮系統の違う第二水雷戦隊に組み込まれた27駆逐隊は、初めての経験だけにまごつくことは明らかである。 うっかりすると、衝突に危険性もある。せめて数日の暗夜航海訓練を行った後で実施すべきでないか、というのが小沢の意見であった。

小沢は旗艦「長門」に、連合艦隊司令部首席参謀の近藤信竹中佐を訪ね、「健制、指揮系統、練度を異にする27駆逐隊を第二水雷戦隊に加えることは危険ですから、ぜひ修正していただきたい」と申し入れた。 近藤中佐は、そのことは参謀長の高橋三吉少将に話してくれと回避した。小沢は高橋参謀長にも進言した。だが高橋参謀長は「すでに連合艦隊命令として発令されているので、いまさら変更できない」と言って、小沢の進言はを容れなかった。

演習は予定どおり行われ、乙軍の第五戦隊(「神通」、「那珂」)が突っ込んでいくと、突然敵(甲軍)の艦隊から探照灯で照射された。敵に先手を取られた第五戦隊は砲撃されるのを避けるため反転、退避した。ところがそこへ27駆逐隊が突っ込んでいった。 そしてあの参事が起こった。

小沢の先見が適中した事件だったが、先を見越す能力と努力に欠けたペーパ計画が、いかに無残な結果をなるかを実証した事件である。



2.
 第二水雷戦隊の編成について、五十嵐邁氏の著書では1ヶ水雷戦隊が3ヶ駆逐隊編成のように記述されているが、大正末期から昭和初期の水雷戦隊の編成は4ヶ駆逐隊であり、現在 、各駆逐隊およ個々の駆逐艦名を、連合艦隊司令部から境町役場に通報された艦隊の編成表(主要艦艇の名称および艦長の階級氏名)を参考に照合、確認を行っていること。 

3. 艦尾を切断され大破した「葦」の遭難者で、両足をうしない舞鶴海軍病院に搬送後死亡された乗組員の氏名が、五十嵐邁氏の著書にある氏名と120名の「蕨、葦殉難者名簿」と一致せず、現在照合、確認を行っていること。 また境町で荼毘に付したご遺体の氏名などを照合していること。

(当時、「蕨」の乗艦者名簿は艦とl共に水没し、現場は混乱して死亡者の氏名の確認ができす、急遽、「蕨」の母港、佐世保から名簿を至急取り寄せる状況で、救助の初動において氏名確認が困難な事情であったことは事実である。)


後記:

文芸春秋の編集局長として多くの作家を育てて来られた高橋氏の絶妙な話題の提示につられてお話しできたことは、同氏の大きな器に呑込まれてしまうのでなく、その器の中で渾然と融合できるようにして下さったためで、を本当に嬉しく思います。 有り難うご座いました。

また、毎年、追悼参拝式に松江からご参加される原正美氏のお姿を会場で認め、突然でしたが、祖父にあたる第26駆逐隊の「栂」の艦長、原中佐の思いで話をして頂きました(原中佐は五十嵐中佐の無二の親友で、事故の夜、遭難地点の海上で御通夜を営んだことで知られています)。
有り難うございました。



 演習における研究項目
   
   
夜間撤退する艦隊に対する巡洋艦戦隊および水雷戦隊の索敵並びに撃退法
   
夜間における巡洋艦戦隊の水雷戦隊に対する協同法
  .薄暮より夜間にわたる飛行機の艦隊接触並びに夜戦部隊との協同法



 演習開始

  甲軍(防御側)は19:30分 美保湾を抜錨 日本海に進出
  乙軍(攻撃側)は想定「甲軍は8月24日21時、隠岐列島知夫里島南方を東航せり」に基づき22:00、行動開始





  演習の流れ(海上自衛隊安全教育資料から)

   
        7

          
          
          
          

          
          




  衝突艦艇配置図
          鳥取県西部海友会創立20周年記念行事として奉納

            

                   石版彫刻碑板   中田石材工作所 謹製



  軍法会議


     


          軍法会議の論告

      
           事件を惹起したる原因


                   神通艦長の執りたる行動


          
  友隊の存在に考慮せず高速力にて大角度の旋回運動を行いしこと
              報告接受法適切ならず旋回中の視認に対する考慮不足
               甲軍艦隊の照射幻惑作用を蒙りつつあるに際し慎重を欠きたり

 


   
 失われた銅製碑板の写真   慰霊塔の基部構造の北壁に埋め込まれていたが、戦後、剥奪され、現在はその跡が残っている。

  事故を速報する新聞記事を銅板に食刻したもので、同じものが美保関三本松公園の「平和記念塔」にも備えられていたが戦後の混乱期に剥奪されるのを防ぐため美保神  社に移し、保管されている。
  これは25日、旗艦「長門」で行われ記者会見で連合艦隊司令長官加藤大将の説明を表し、
徹底した情報の公開がおこなわれている

             
                        複製品  海軍記念館準備室提供




  伝統ある軍艦旗

        

     
           

                                                    文責 慰霊塔顕彰護持会、海軍クラブ美保錨会 相談役 松下薫    
                                     


                                   




 アーカイブ (保管記録)



 平成25年度

 
   美保関沖事件殉職者 第85周忌追悼参拝式

           
8月24日(土曜日)午前10時から1時間  境港市台場公園「海とくらしの史料館」内)

                                         
美保関沖事件殉職者慰霊塔顕彰護持会 会長岡空  
                                              海軍クラブ美保錨会 会長 菊地英夫     共催


 

            

          
                           
来賓受付


                                   
・・・・・・・・・・・・・・・・



                 
第85回 美保関沖事件殉職者追悼参拝式

                                                             
平成25年8月24日 
                                                                   
海とくらしの資料館内


                                         
式次第
                        
09:50
                            
進行  松下薫相談役 邨田拓斗青年部部長(島大法文4回生)

                        
09:55
                            挨拶  慰霊塔顕彰護持会会長  
岡空研二


                        
10:00

                           
1. 開式の言葉 慰霊塔顕彰護持会副会長  渡辺秀隆

                           2
. 国旗掲揚 半旗  (国歌演奏)  (海軍クラブ美保錨会 福本鉄郎事務局長 山下光良会員)

                           
3. 殉職者に捧げる追悼演奏:「軍艦行進曲」、鎮魂歌「葦と蕨の7殉難の歌」
                                 (さかいみなとウインドアンサンブル楽団、
松本幸永団長指揮


                           
4. 新たな発見
                               
・般若時で発見された「第一回追悼会の殉難者諸精霊位(位牌)」
                                                         
                                                     小灘浩境港市史編纂室長 

                               ・美保湾に集結した連合艦隊の写真を含む絵葉書セット

                                                     根平雄一 郎
前境港市教育長

                           5. 黙祷 「海ゆかば」演奏

                           6 .追悼の言葉 
慰霊塔顕彰護持会会長  岡空研二

                           
7. 来賓追悼の言葉
                                     
境港市 中村勝治市長
                                     海上自衛隊舞鶴地方総監 井上 力海将

                           
8. 追悼電報の披露  海軍クラブ美保錨会  佐々木憲四郎会員

                      
  10:40
                           
                           9. 献花   
(背景演奏)


                          
10. 国旗降下 (国歌演奏))  (海軍クラブ美保錨会 福本鉄郎事務局長 山下光良会員
                                
                        
11:00

                          
11 .閉式の言葉   海軍クラブ美保錨副会長 矢田二郎



                                         
  ・・・・・・・・・




 
主催者追悼の言葉      

 私ども顕彰護持会と海軍クラブ美保錨会は、毎年八月に追悼参拝式を実施し、この悲惨な史実を風化させるこおのないよう、そしてこれを後世に広く伝承することを旨としております。
 次世代を担う青少年に対し、当時の国際情勢、我国の置かれていた状況などを伝え、国安泰のために殉じた英霊を追悼し、顕彰する意義を図るよう努めることをここに誓い、哀悼の誠を捧げます


                                   
平成二十五年八月二十四日
                                            慰霊塔顕彰護持会 会長 岡空研二

                                                 



 
来賓追悼の言葉


 追悼の辞(ことば)

 美保関沖事件殉職者追悼参拝式が、殉職者のご遺族並びにご来賓各位のご参列のもと挙行されるにあたり、殉職者の御霊に対し、謹んで哀悼にまことを捧げます。

 昭和二年八月二十四日、旧日本海軍の連合艦隊が、美保関沖の海上で、実戦さながらの夜間演習を実施していました。
 おりからの台風接近で、激しい雨と]逆巻く波の中、不幸にして巡洋艦「神通」が駆逐艦「蕨」に激突し、「蕨」は船体が切断され沈没。さらに、後続の巡洋艦「那珂」が駆逐艦「葦」の艦尾に衝突する大参事が起こり、百二十名の方々が尊い犠牲となられました。

 この大参事からすでに八十六年の歳月が経ったとはいへ、この悪夢おような事故は、今を生きる私たちにとても痛恨の極みであり、決して忘れてはならない史実であります。最愛の肉親を失われたfご遺族の方々の深い悲しみは想するに余りあるものがあります。

 我国は戦後一貫して、世界の恒久平和を願い、平和国家として、たゆみない歩みを続け、国際社会の中で重要な地位を築いてまいりました。
 しかしながら、第二次世界大戦集結後、六十八年を経過してもなお、昨今の世界情勢は地域紛争やテロなど、暴力と報復の連鎖による悲劇が未だ繰り返されており、極めて残念な思いであります。

 私たちは、世界中の人々が、二十一世紀において、平和と繁栄を享受っできるよう願い、改めて戦争の悲さと平和の尊さを心に刻み、次の世代に語り継いでいくことを固く誓うものであります。 また、慰霊塔の存在を後世に伝える活動を続けておられる「美保関沖事件殉職者遺影塔」顕彰護持会」をはじめとする、関係者の皆様に深く敬意を表するとおもに、感謝申しあげます。
 むすびに、日本海の、海底深く眠る諸霊のご冥福をお祈りし、併せて、関係各位のご多幸を心から祈念し、追悼のことばと致します。



                                        平成二十五年八月二十四日
                                                 境港市長 中村勝治





  
追悼の言葉                                                 

 本日ここに、海軍美保関沖事件殉職者追悼参拝式にあたり、海上自衛隊を代表し、謹んで哀悼の誠を捧げます。

 振り返れば、本事件が生起し昭和初期、日本は、第一次世界大戦後のパリ講和会議において国際連盟の常任理事国となり、当時の一等国に数えられるようになっておりました。しかしながら、日本国内においては、世界大戦後、の恐慌に陥り、さらに関東大震災の大打撃を受け、経済は危機的状態にありました。

 このような中、太平洋への勢力拡大を急いでいた米国は、日本を中国権益獲得を目指すライバルとして意識し、一貫して日本の対外進出を牽制し、国際世論を誘導して日本を孤立させ、しまいには日英同盟を破棄させました。そうして、米国の利益を優先させるべく、ワシントン会議を主導し、海軍軍縮という厳しい制約を日本に突きつけました。
 

 それに対抗し、連合艦隊は「訓練に制限なし」の掛け声の下、連日激しい訓練を行っておりましたが
八十六年前の本日、八月二十四日、徹夜の夜襲訓練中に、複数艦の多重衝突事故が発生し、不幸にも多くの将兵の皆様が、その職に殉ぜられました。

 平時とはいへ、当時、日本の将来に暗雲が立ち上がる中、我国の存続と繁栄を願いつつ、欧米f列強に隻数で劣る海軍力を、毎日の猛訓練により、これを克服すべく任務に邁進し、途半ばにいて壮烈な殉職を遂げられた皆様に、痛恨の念を禁じ得ず、改めて啓意を表する次第であります。

 翻って、現在の我国を巡る安全保障は厳しく、ミサイル発射や核開発など、国際社会に対し、依然として挑発的な行動を続けている国や、軍事力の急速な近代化を進め、海洋利益を求めて我国領海への継続的な侵入を繰り返す国が存在するなど、地域の懸念は一層深刻化しております。

皆様の末裔とのいへる海上自衛隊は、この事件を決して忘れることなく、国民の負託に応えられるよう、引き続き海上防衛の任に全力を尽くしていく覚悟を、改めてお誓い申し上げます。

 本日ここに、御霊の安らかならんこおをお祈り申し上げますともに、国家国民に対するご加護を賜らんことを祈念して、追悼の言葉といたします。


                                       
           
                                          平成二十五年八月二十四日 
                                                舞鶴地方総監 海将 井上 力







  
追悼電報

美保関沖事件殉職者追悼参拝式の挙行にあたり謹んで追悼の誠を捧げます。

ご遺族の方々に心よりお悔み申し上げますとともに、我国の平和を守るという崇高な任務に志を抱き任務遂行中に殉職されました尊い百二十柱の御霊のご冥福を衷心よりお祈り申し上げます.

美保関沖の事故という歴史上のj事実を回顧し、次世代に伝承すjることで二度とこのような悲惨な事故が起こらないことを念願し、未来の約平和を祈念いたしますとともに、本日ご参集の皆様方のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。


                                            平成二十五年八月二十四日
                                              国土交通大臣政務官 衆議院議員 赤沢亮正





 
平成二十五年度美保関沖事件殉職者第八十五周忌追悼参拝式の開催に当たり、関係各位のご尽力に深く敬意を表しますとともに、英霊の鎮魂とご遺族の皆様方のご健勝とご多幸を心からお祈りいたします。
                                            平成二十五年八月二十四日
                                                             参議院議員 舞立昇治

 写真撮影は松下 昭宣会員

  
              献花担当   岡空会長夫人、    黒目光代さん         司会進行、邨田拓斗青年部部長(島大法文4回生)


                

                   
                                        
来賓

赤沢代議士秘書、舞立参院議員秘書、境港市議会議長、自衛隊鳥取地方協力本部長、航空自衛隊美保基地司令、陸上自衛隊第8連隊副連隊長、航空自衛隊高尾山分屯基地司令、米子地域事務所、駒月所長、 境港市教育長、 同教育委員長 、福祉課 山根課長補佐、 安田県会議員、 森岡県会議員、 米村市議会議員、 平松市議会議員、浜田市議会議員を含め、多数のご来賓のご臨席を賜りました。 厚く御礼申しあげます。

                   

                   




          
               
さかいみなとウインドアンサンブル楽団 指揮は松本幸永団長

 
              

                    

           

商工会議所 木村副会頭、 美保神社 横山宮司、 海とくらしの史料館 南家館長、 境港自衛隊父兄会 田中会長、 おさかなロード振興会、山田会長、 境港ライオンズクラブ 三本松第一副会長、 花町自治会代表 景山様を始め、多数のご招待者のご臨席を賜り、厚く御礼申し上げます。

特に、遠藤 量様、梅谷陽治様、木村亘様の境港市の名士の方々のご参列を感謝申しあげます。 当日、賛助会員の登録を賜り、有り難う御座いました。               

 
             
               
ボランティア参加の1中の生徒 (外村教諭引率)お世話になりました


  献花

 
   
   
 慰霊塔顕彰護持会 岡空会長          海軍クラブ 美保錨会 菊地会長           境港市長代理  阿部福祉課長  


  
 
境港市議会 松下議長               自衛隊鳥取地方協力本部 吉浦本部長          境港市教育委員会 遠藤委員長            



   鳥取県県議会 安田裕子県議                   美保神社 横山宮司              境港商工会議所 木村副会頭
 

  
  境港市自衛隊父兄会 田中会長夫人       海兵72期 田山喜久雄氏               梅谷陽二治氏
  
                                            
(大阪日本ポルトガル協会会員、元・水木しげる記念館長)

   
 
 遠藤 量氏 (日本海新聞ペンクラブ会員)          海とくらしの資料館 南家館長           海軍クラブ美保錨会 足立会員


                 
  
        
海上自衛隊舞鶴地方総監代理 管理部長  西1等海佐       原正美氏(駆逐艦「栂」艦長原中佐のお身内)






式の全体(動画)
  
(株)ネットマーケティングジャパン社長 井上良孝氏 撮影編集

開式の言葉ならびに国旗掲揚 殉職者に捧げる追悼演奏


新たな発見 黙祷 「海ゆかば」演奏


追悼の言葉 慰霊塔顕彰護持会会長  岡空研二 来賓追悼の言葉
境港市 中村勝治市長


来賓追悼の言葉
海上自衛隊舞鶴地方総監 井上力海将
国旗降下ならびに閉式の言葉



 





報道

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節目の85周忌を迎え
新たな発見などを含め、保有の資料、記録の再評価



                         
          平成25春、新たに設置された標識板



今年は85周忌の節目の年
に相応しい事柄が次々に起こりました。3月には美保関沖事件の全貌を記述した境港市55周年史が発行されました。
23頁にわたり新たに発見された記録文書を含む詳細な記録が掲載され、このことは境港の市史では初めてのことでした。境港市市史編纂室の膨大な保管資料の中には多くの重要な記録は包含されています。編集者は小灘浩市史編纂室長です。

4月6日、海上自衛隊舞鶴地方総監、井上力海将主催の春の観桜会に小灘浩室長をご案内し、この市史を井上海将に贈呈して戴きました。海上自衛隊の安全教育資料の一助にとの意で。


                 
境港市五十五周年史

                   
  
             
8月24日、式典会場の受付で限定販売(価格2000円)が行われます


次に、去る6月には花町の般若寺で庫裏の改修工事の際に、高さ75センチもある大きな位牌が発見されました。「帝国軍艦蕨葦殉難者諸霊位」と書かれています。古い写真や記録と照合の結果、この位牌は8月24日の演習事故直後の同月30日に旧面谷酒造の東側のの広場(現台場公園)で行われた最初の追悼会で用いられたものと判明しました。 

5年前に境港市主催で行なわれた80周忌の慰霊祭の「追悼展示会」(鳥取県西部海友会協賛)に殉職者の遺影の写真が飾られましたが、市史編纂室が保管する「蕨葦殉難者名簿」は展示されませんでし。この立派な表装の「蕨葦殉難者名簿」に艦尾を切断され大破した「葦」の殉難者28名と沈没した「蕨」の殉難者92名の120名の氏名階級が明記されています。

また、慰霊塔には軍事法廷の結審前に、全ての責任は自分にあるとして全国からの多くの減刑嘆願に配慮した判決を聞くことなく、自宅で自裁された軽巡洋艦「神通」艦長、水城圭次大佐の霊が合祀された記録(慰霊塔工事概要および新聞記事)も発見されました。慰霊塔には合計121柱の諸霊が合祀されています。



   
「朱塗りの三重の塔」(高さ約40センチ)は、昭和4-6年頃、中野の浜辺で発見され、基部に「わらび」の字が彫り込まれている。事故の翌月、9月3日、漁船をチャータして「蕨」の遭難現場で行われた洋上追悼絵で用いられた品と推定される。なお今後の調査が期待される。




 
  
6月の庫裏の改修工事で発見された位牌 (般若寺)   第一回追悼会(昭和2年8月31日) 面谷酒造の東側の広場(台場公園)


             



 
軽巡洋艦「神通」艦長 水城中佐の御霊の合祀

      






 
美保湾に集結した艦隊の写真を含む「絵葉書セット」発見

                                       
根平雄一郎 前境港市教育長提供


             
        追悼参拝式当日、「海とくらしの資料館」に展示  

      


              
昭和54年、鳥取県西部海友会がに既に保有していた写真の例
                         (出所不明のまま) 
  

        
              
この画像の出所は、今回の新たな発見で説明された「絵葉書セッ」の一枚と判明した
                      
(夜間演習発動前の美保湾に集結した連合艦隊63隻の一部)



           
           
二重衝突事故後、横一列になって遭難者の救難捜索を行う駆逐艦群(大阪朝日新聞山陰版に掲載)
                         (「美保関のかなたに」には20隻の駆逐艦との記述がある)
 


殉難者名簿


                    
                     
  

蕨葦殉難者名簿

「蕨」殉難者(順不同)92

中佐 五十嵐恵、機中佐 福田秀穂、 大尉 佐々木茂夫、大尉 内俊範 大尉 新田義熊、中尉 宮地道哉、機中尉 前田軍治、特中尉 藤田利一、 機特中尉 増田倉平、 兵曹長 古藤一令、機曹長 平川近次、兵曹長 鶴田勇吉、 機曹長 木場政晴、兵曹長 浅野若松、 一機曹 牧五郎、一機曹 真野己久馬、一機曹 道山克己、二曹 松井万吉、二曹 小屋重盛、二機曹 今西一、二曹、荷宮五郎、二曹 藤田清一、 二曹 高島順治、二機曹 猪熊盛一、三機曹 小川真二蔵、三機曹 長田綱盛、 三曹 増岡幸八、三機曹 竹岡信治、三機曹 西本清次、三機曹 山本仙次郎、三機曹 吉川三郎、三主曹 芳竹益喜、三機曹 高橋好太郎、一水 吉村逸郎、一水 林平八郎、一機 黒葛野武二、 一機 浜口英延、三曹 富永喜重、 三曹 原之園政義、三曹 小路正彦、三主曹 新名巻太郎、三曹 園田太郎、三曹 山本昇、三曹 徳留九郎、三機曹 小川庄市、三曹 村田末男、三曹 松本速雄、三機曹 河内亀一、三機曹 須崎学、三機曹 松浦鹿象、二機 田代金次、二機 徳永登、二機 一柳忠則、二機 亀岡年春、二水 大崎年雄、二主 鶴田清、二機 坂本実、二機 妹尾重美、二機 佐竹道男、二機 中原信雄、三機 西田令吉、三機 緒方勝喜、三水 山口貞樹、一水 高田徳三、一機 森内伝吾、一看 石橋三二、一機 小川弥六、一機 飯村三次、一水 有川国良、一機 江川末吉、一船 林悦蔵、一水 砥錦文五郎、一機 若松豊成、一水 森山伍一市、二水 偵 茂世、二水 板垣根政幸、二機 大津次雄、二機曹 日高慶三、三曹 楢崎路雄、三曹 野村進、三主曹 遠竹重治、三曹 高田繁男、三曹 山内綱雄、三曹 猪股良作、三曹 中村徳次郎、三曹 本田智綱、三曹 古閑利次郎、三曹 池田正行、三機曹 中尾守、三水 和田稲吉、三水 岡山正義、三機 矢野猛

「葦殉難者」(順不同)28

兵曹長 甲斐次郎、 一機曹 草場茂雄、一主曹 山川茂、一曹 定村高政、一船曹 松下壮栄治、二機曹 野田益蔵、二機曹 北村伊作、二主曹 永松績、二曹 角喜左衛門、二曹 福永源吉、三曹 森本喜二、三曹 木村広喜、三機曹 口要谷八、三機曹 百留千年、三機曹、飯塚成俊、三曹 山口義雄、,一主 丸尾広喜、一水 都留正三、一主 友松義一、一機 白石亀太郎、一機 佐藤国人、二主 松江乙弥、二水 岡田吉太郎、二機 一ノ瀬忠一、二水 宮下朝光、二水 実松栄次、三水 広川徳次郎、三水 江川重作


注:
1 .*は9月1日、舞鶴で行なわれた海軍葬で119名の位牌と共に飾られた遺骨を表す。

2. 「美保関のかなたに」
には「葦」の広池二等機関兵は重傷(両足を切断)で舞鶴の海軍病院で手当中、26日に死亡したとあるが、この名簿には記載されてなく、一機、白石亀太郎の誤りでな  いか、現在調査中。 「蕨」の乗り組員名簿が水没したため8月26日頃まで救難現場は混乱した記録が記されている。

3. 下線付の氏名は引き上げられた遺体を示す。 海軍合同葬後も遺体捜索は続き、9月1日に庭茂弥二等水兵と氏名判別不能な遺体を一体引き揚げ、9月2に藤田利一特務中尉の遺体を引き揚げ   、西伯郡の上道火葬場で荼毘にふされたた 。9月10に新田義熊大尉と艦長、五十嵐中佐の遺体が引き揚げられ、上道火葬場で荼毘にふされた。
    庭茂弥二等水兵は殉難者名簿に記載されてなく、現在調査中。


    
                                                  合掌





  追悼演奏   さかいみなとウインドアンサンブル楽団(松本幸永団長)

            



                  
                        
練習風景

8月9日午后8時からの松本幸永団長指揮の演奏練習を慰霊塔顕彰護持会岡空会長、海軍クラブ美保錨会の菊地会長、同会福本事務局長と共に参観させて戴きました。「黙祷」時に演奏される「海ゆかば」は同歌詞(大伴家持、)異曲(東儀芳香作曲で、海軍在籍時代に聞きなれた荘重な旋律に感動を新たにしました。 殉職者の諸霊に対しまたとない供養になりましょう。

団員の皆様、有り難う御座います。 宜しくお願い致します。



  演奏曲目


         

              



  

  
 


平成25年度 舞鶴地方総監部
   
観桜会(市民と海上自衛隊のつどい) 
                                 平成25年4月6日平成25年4月6日
                                            

 今回の参加は、海上自衛隊舞鶴総監部との事前調整に基づき、本年2月に発行された「境港市55年史」境港市史編纂室小灘浩室長から舞鶴地方総監井上力海将に贈呈して戴くため小灘室長および立会役の慰霊塔顕彰護持会の松下昭宣氏を伴い、松下薫相談役が岡空会長の名代として、海軍クラブ美保錨会会長の菊地英夫氏と共に参加致しました。梅雨前線の異常発達による悪天候の予報下の行動でしたが、一部区間で小雨、強風に遭遇したことを除き、菊地氏の運転する素敵なハイブリッド車で楽しい一泊旅行を兼ねた参加になりました。
  
以下、主として初参加の小灘、松下昭宣氏撮影のスナップ写真により参加報告をさせて頂きます。                         


  
                 
            桜満開の波止場

    
  
         祝宴会場入り口                           舞鶴地方総監のご丁重なお出迎えを受ける。感激。  

           
                         
 舞鶴地方総監 井上力海将ご夫妻
 

   
            
  祝宴会場のスナップ                                 舞鶴音楽隊の演奏

  
       
舞鶴地方総監 井上力海将ご夫妻を囲んで            基地業務隊司令 市坪2等海佐(元第7護衛隊「せとぎり」艦長)    
         (左端は境港市55年史を贈呈した小灘境港市史編纂室長)          元上官の第7護衛隊司令 菊地英夫会長と久々の出会い)
                                                  
                  

   
   
         総監、舞鶴市長、協力会会長等による鏡割り           テーブル・サービスの若い隊員を激励する(曹候補海士長)
     
    
    きりっとした女子隊員(海士長)      原発銀座を警備担当区域に持つ金沢市駐屯の第14普通科連隊長 松永康則1陸佐と懇談

  
   建を連ねる恒例の屋台(肉じゃが、カレー、手打ち蕎麦等)          常連の市民肉じゃが同好会のご婦人連
              
                      
アトラクション「阿波踊り」

              
                   
創業150年の和菓子の老舗でお土産を購う







 
思いでのスナップ(第7護衛隊「せとぎり」艦長

        
  舞鶴地方隊展示訓練(境港沖合)のため護衛艦12隻境港に集結(平成17年)

   
    
 「せとぎり」艦長市坪2海佐、同艦副長、先任伍長と      第7護衛隊司令 菊地英夫1海佐の歓待を受ける海友会役員
     (
防衛協力団体主催の歓迎の宴にて、鳥取県西部海友会)              (護衛艦「せとぎり」士官室にて)








編集後記:初参加の松下昭宣氏の感想文をもって編集後記とします。

 
「春の桜を見る会」に想う」             松下昭宣

「頑張れよ!」、「はい!」。若い海上自衛隊員は、目をキラキラさせて応えてくれた。

 海上自衛隊舞鶴地方隊総監部主催の「春の桜を見る会」に招待され、松下薫氏、菊池英夫氏、小灘浩氏と小生四人は、どっしりと錨を下ろしている護衛艦、駆逐艦等が接岸している岸壁の付近にある舞鶴総監部に到着後、案内されて広大な体育館に入った。

 式場は、一千数百名の来賓と隊員でごった返していた。 開会の辞のあと、自衛隊員による各種の出し物はすばらしく、中でも翼連による阿波踊りは式場を最高に盛り上げたようだった。踊る人は本場仕込みで、それはそれは二拍子のリズムに会にふさわしく会場全体が浮かれ気分にさせられたようだった。

 屋台はもちろん、テーブルの上のご馳走は、殆ど隊員による手作りによる物だと聞いて驚いた。あまりにも本職まがいで美味しかったので。

若い隊員が、次から次と来賓からのオーダーを受けて、手際よく手配していた。私も、海軍カレーをオーダーし、食した。味はまさしく昔懐かしいカレーだった。

隊員による、来賓の方々に対するもてなしが最高に嬉しかった。来賓の中には美保関殉難事件を元海軍だった父から聞いたと、我々の美保関沖事件殉職者慰霊塔顕彰護持会に理解をされた方も居られたので嬉しかった。若い隊員にいろいろと雑談を交わし、最後に巻頭の言葉を交わしたのである。

市民と隊員、とりわけ若い隊員に激励の言葉を交わすことが何より大事なことだと思います。きっと力強い応援を貰ったと思ってくれ、仕事の励みになるに違いない。今後、同会にご出席される方は、出来るだけ隊員に、特に若い隊員に激励の言葉を交わしていただきたいと思います。 国防という崇高な職務に就いている隊員たちに感謝しつつ、海軍カレーを買って帰りました。

                         

(記録保管綴)



   
 平成24年度美保関沖事件殉職者追悼参拝式
             (通算第84周忌)


            
 期日:平成24年8月24日午前11時から1時間

             場所:境港市台場公園内慰霊塔前(雨天時は「海とくらしの史料舘」内)




                   
     
           
 追悼展示会

   
        
            期日:平成24年8月24日から10日間(午前10から午后5時)

            場所:境港市台場公園内
「海とくらしの史料舘構内、「白壁展示室」

                             
 美保関沖事件殉職者慰霊塔顕彰護持会(岡空研二会長) 主催
                                                        海軍クラブ美保錨会(菊地英夫会長) 協賛 
 





追悼展示会は、昭和2年8月24日、美保湾に集結した連合艦隊63隻の艦艇を当時の姿に復元したジオラマ展示(舞台装置の製作は画家で境港市教育委員長の遠藤恵裕氏)と共に、各種の説明資料、記録文献、写真、新たに発見された鳥取県および境町役場の公文書写しなど一切の関係資料を公開しております。
 数多くの貴重な資料が含まれておりますので是非ご参観下さい。(入館料不要) 

       
   NHKテレビ・ニュースで放映、産経新聞、日本海新聞、山陰中央新報に掲載



今回展示しました艦隊編成は、8月中旬、境港市市史編纂室で新たに発見された「境町役場の兵事係記録公文書」を参考に、従来の編成と一部変更しました。

1)夜間演習に参加しない第一、第二潜水戦隊を潜水母艦「迅鯨」、「長鯨」を含む完全編成とし、それぞれ2ヶ潜水隊、合計、伊-号潜水艦3隻、呂-号潜水艦6隻とし、また対潜哨戒  艇としてそれぞれ三等駆逐艦を四隻ずつ配置した。。
2)夜間演習に参加しない付属部隊の給油鑑は佐世保-舞鶴間の航海に対して
[鶴見」1隻のみとし、補給艦は給糧艦「間宮」1隻とした。

     
       説明時間:午后3時から5時15分まで。 担当、海軍記念館準備室主幹 松下 薫 (5名以上の団体の場合は調整可)


             

              


              
  
          
猛暑を避け、木陰を利用して三々五々着席

                                
総合司会進行は戸田泰雄会員  録音器係は高尾佳孝会員

                                        国旗掲揚は海軍クラブ美保錨会 矢田二郎副会長
,、山下光良会員
                  来賓席に松江観光協会アドバイザー高橋一清氏(元文芸春秋編集長)のお姿も、



                      
 岡空研二会長 挨拶、追悼の言葉
                                     境港市長、自衛隊鳥取地方協力本部長の追悼の辞

          

                      
開会宣言 渡辺秀隆副会長
           
                   
                                  献花参拝
           
                  慰霊塔顕彰護持会会長、   海軍クラブ美保錨会会長

                            
                                  来賓 献花、参拝
             
                   
          境港市長、同市議会議長、県議会議員の参拝

                
           
              
        
自衛隊鳥取地方協力本部長、防衛省情報本部美保通信所長、航空自衛隊美保基地司令、陸上自衛隊
                   米子駐屯地司令、航空自衛隊高尾山分屯基地司令の献花

             
        
     
三浦周行 文学博士奉納のの追悼文(明治4年6月4日生れ、松江市出身、東京帝大教授、同大学の史料編纂官)
                                                         右の砲身は40口径8cm砲(二等駆逐艦の備砲)

                  
                        (追悼参拝式の写真撮影は、松下昭宣会員)
             

         
       
            
 美保湾に集結した連合艦隊63隻(夜間演習実施前の停泊状況)
                             
舞台装置の背景画は、境港市教育委員会教育委員長、遠藤恵裕氏製作
       
            

            
            


 


                
各種関係資料50点を公開

   
演習時、旗艦「長門」に座乗し、救難活動を見守った連合艦隊参謀長、高橋三吉少将(後の連合艦隊司令長官)署名を縫い込んだ軍艦旗


                 
慰霊塔の建設、竣工式、慰霊祭関係

        

          
事故翌日の新聞記事(情報の完全公開) 艦艇衝突配置図、 沈没場所のソナー調査資料
         


  
          
当時の国際情勢、演習計画、時間経緯の各艦艇の行動状況、事故発生状況の記録資料
         

             
         境港市市史編纂室長 小灘浩氏提供の新資料

        
                  
鳥取県から市町村長宛て文書(軍艦の観覧について)

         

       
            
                  境町役場兵事係の記録文書 

                           


        第一、第二艦隊の司令長官、水雷戦隊、潜水戦隊等の戦隊司令、空母「赤城」を含む主要艦艇の艦長の官職氏名が明記

                  

  
 報道機関の取材

          
               
NHK米子放送局をはじめ、多くの新聞社の報道に感謝申し上げます。

            

                
                 
 美保神社禰宜 横山宏充氏、 献花係 黒目光代夫人と共に
                   
(黒目夫人の亡きご父君は鳥取県西部海友会の第二代会長


  
動画  (株式会社ネットマーケティングジャパン 井上良孝社長 撮影、編集)


         http://www.youtube.com/embed/AQjwwFEM3hQ?rel=0
              
開会の言葉   顕彰護持会渡辺秀隆≫副会長   
         http://www.youtube.com/embed/Kg2ZC9GPMv4?rel=0
              
 慰霊塔顕彰護持会会長 岡空研二 挨拶、追悼のことば

                 http://www.youtube.com/embed/rMgGfsRRnoI?rel=0
               中村勝治 境港市長 追悼の言葉 代読

         http://www.youtube.com/embed/839bdH1ikaU?rel=0
              
自衛隊代表 自衛隊鳥取地方協力本部長 追悼の辞 住谷正仁 1陸佐 

         http://www.youtube.com/embed/m-culkDKGVA?rel=0
             
追悼展示会説明  顕彰護持会および海軍クラブ美保錨会相談役 松下  薫
 

                         
 終り

     

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