レーダおよびソナーの開発

レーダの開発

電子管技術マグネトロン(電磁管)の研究開発 海軍技研 伊藤研究室(超短波研究斑)

昭和12年末、発振波長の短い八分割陽極マグネトロンと呼ばれ、のちに“橘型”と命名されたセンチ波マグネトロン(出力10w)を開発したが、直ぐには陽の目を見なかった。 それを基礎に実験を重ね、昭和14年、日本無線と共同で、新たなタイプの高出力の“菊型”マグネトロンを開発した(波長6cm、出力30w)

軍技術研究所電気研究部は1939年(昭和14年)から始まったマグネトロンを応用応した「暗中測距装置」の共同研究を開始した。

昭和16116日、パナマ運河経由、ドイツ視察団を派遣。同視察団が見たドイツのX装置「ウルツブルグレーダ(高射砲と連動する対空射撃用測距装置)の情報を入手。 

昭和1682電波探信儀研究実験着手」の大臣訓令の通達

昭和17年(1942年)シンガポールとコレヒドールを攻撃した日本軍は、それぞれイギリスとアメリカの地上固定式電波警戒機と移動式対空用電波標定機を一組ずつ捕獲した。

また、昭和17年春、シンガポールのイギリス軍高射砲陣地のあったゴルフ場の塵芥焼却場で、投げ捨てられていたノートが発見された。それは電波兵器レーダの整備兵、ニューマン一等兵が受けた講習ノートの文書であった(ニューマン文書)。SLC THEORY、1.INTRODUCTION, 1-1 Function of Equipmentと記されており、SLC(探照燈制御)の理論、序言、装置の機能と続)く、文書の冒頭は、The SLC Equipment is designed for detection of aircraft…で始まる。即ち、探照燈と連動してその光を敵機の方向に向けるのに使用されるものである。この文書の中に、YAGI array をレーダの送・受信に用いると記してある。
                              「ニューマン文書と八木・宇田アンテナ」 佐藤源貞著

(昭和17年10月に陸軍が開発した「た号2型」電波標定機は、ニューマン文書に基づき、高射に必要な測定回路を追加したものである)

昭和18年、海軍も英国の対空見張り用レーダの模倣品を製作を決定、、予算一千百万円。
これはパルス技術と陰極線管(CRT)表示技術が重要な決め手。日本放送協会技術研究所と日本電気技術陣の協力を要請。 8月末にはともかく、波長4.2m、出力5kwの実験機を作り上げ、それを基礎に改良を重ね、波長3mの対空見張り用レーダの試作に成功した。垂直ビーム・アンテナを用いて98日から本格的実験を開始した。目標が一式陸攻機の場合、最大97kmまでの測定が可能。ビーム・アンテナを改良して兵器化を決定。

送信関係は日本電気、受信関係は日本ビクターアンテナの旋回装置は富士電機がそれぞれ担当。対空見張用電探「一号一型」(通称11号)を製作その一号機を千葉県勝浦灯台付近の台地に設置。

陸上対空見張用電探」「三式一号三型」(通称13号
)を製造。
 
緒言:周波数150MC、PRF500c/s、送信機 出力10kw、パルス幅 10μs、受信機 IF 14.5MC、帯域幅 ±100kc、利得 80db
    アンテナ 半波長水平2列4段(反射器も同じ)、電源 AC110/220V、自動電圧調整器、発動発電機(1.1kva)

艦船用対空見張用電探「二号一型」(通称21号) (波長1.5m、出力5kw、重量840kg)を開発。

昭和17年10月12日の「サボ島沖海戦」の夜戦で、米軍は英米共同開発で完成したマグネトロンを用いた波長9.7-10cmの水上射撃用レーダ(レーセオン社製SC1型)で、重巡洋艦「青葉」、「古鷹」が暗夜集中砲火を浴びて沈没した。米艦隊はこの頃からより高性能のマイクロ波レーダに切換えていた。その一ケ月後の「第三次ソロモン海戦で日本は始めて巡洋戦艦「比叡」、「霧島」の二隻を失った。用兵側はここに至り、射撃用レーダの重要性を認識し、かって研究を抹殺したセンチ波レーダの研究開発を命じた。そして日本無線技術陣との協力で"ラッパ"型の電波探信儀を製作した。後の「二号二型」である。

水上見張用マイクロ波電探「二号二型」(通称22号)。波長cm、受信機に鉱石検波器(黄鉄鉱)スーパヘテロダイン方式を採用、アンテナの代わりに二本の電磁ラッパを使用。送受信管からラッパまでを導波管として鋼のパイプで電波を導くようにしている。ところが送信と受信の電磁管の波長がなかなか合わず、合いそうなものを選別して使用しなければならず、実戦部隊から敬遠された。
しかし、この電探の使用のお陰で濃霧の中でキスカの撤退作戦が成功し、事後、用兵側もこの種の電探の重要性を認識することになった。
この二号二型電探の送信用マグネトロンには
1.4cmの銅の厚板を打抜き、橘型の陽極をつくり、それを水冷して過熱を防止して出力の増大を図っている。しかし小型のマイクロ波受信機の製作には試行錯誤を繰返し、やっと受信用マグネトロンM60の開発、試作に成功した。しかし受信電波をブラウン管上に増幅、処理する受信装置の改良で一進一退を続け、やっと昭和1612日に反射波をブラウン管上に表すことができた。

対空見張用電探「二号二型」改一(マイクロ波)オートダイン受信機を採用

新型水上射撃用電探「三号二型」(波長10cm
、出力2kw、重量5トン) 19年9月に完成。

艦船用対空見張用電探の開発について、当初、用兵側は「暗夜に提灯を灯すもの」と批判し、後に装備決定時も、「花魁の簪のような大型のアンテナを測距儀の上に取付けるなどもっての外、艦の重心を乱すものだ」と、また「艦橋の傍に電磁ラッパを装備するのは艦の速力に影響する」などの言辞を弄していた。しかしこれには止むを得ない理由もあった。それは一つは、世界に誇る精密な側距儀に対する絶対的な信頼と、第二に、昭和17年の後半において、戦艦「武蔵」に取付けた対空見張り用二号一型電探が主砲の一斉射撃演習時で、アンテナはその一部に取付けた碍子の破損のみで済んだが、強烈な振動のため送信機が破壊され、送信管が破損するなど無残に壊れてしまったことにもよる。 さらに 通常時でも、真空管の不良のため調整に手まどり、装置の動作状態が日毎に変わりに、装置全体の脆弱性に加え、その信頼性および安定性が欠如していたからである。

空技廠による航空機用レーダの開発(海軍航空技術廠-追浜) 昭和17

大型飛行艇、中型攻撃機搭載用「空六号」を開発(波長2m、出力六キロワット、重量150s)、探知能力は大型艦100q、小型艦50q)。 八木アンテナ使用。 真空管にU-2332本使用。この真空管のプレート電圧は8.000 Vで、高度が3000m以上になると大気圧の低下で放電しやすくなり、コロナ放電で使用不能となる欠点があった。昭和18年に、高度3.000m以上になるとプレート電圧を6.000Vに下げるよう構造を改善した。また飛行中のブラウン管の映像は高度を2.000mに上げると、近距離の目標はシー・クラッターのため判別できず、距離2.000mから3.000m以上遠方の目標でなければ探知できないという欠点があった。 終戦までに2.000台作られ、主として索敵用に使用された。航空機用レーダの装備には重量制限に加え、機内の発電機のパワーに限界があった。 昭和193月。用兵側重量制限をようやく撤廃。「空六号電探」を艦攻「天山」にも搭載。


 電探の分類種別一覧

 一号 陸上用     通称13号   大型艦船にも使用
 二号 艦船用     通称22号
 三号 対艦射撃用  通称32号
 四号 対空射撃用  通称43号 (探照燈に受信アンテナを備え、観測器に送信アンテナを備えて、(探照燈と電探を組合わせた)
 五号 PPI表示    幻の4発超重爆撃機「連山」
 六号 接敵誘導用  通称61号 
 その他
      航空機搭載用 空6号(H-6)(中型攻撃機以上の大型機用)八木アンテナ使用

      逆探(探知機3型) 波長
m 波、この装置はドイツからの情報をもに技研で作った受信専用の装置で、アンテナもドイツから教わった通りの                   ものを取付けた。二千数百台生産し、各艦に配備した。 潜水艦には特に重宝がられたが、米軍がUHF(極超短波)                    を使い始めてからは検知できなくなった。

     米軍の鹵獲品のコピーである早期警戒用電探41号
(国産真空管の不良のため十分な性能が得られなかった)


空技廠が開発していた小型機用の哨戒索敵電探「N-6(波長1.2m、出力2kw、重量60kg)夜間戦闘機用接敵用電探「FD-2(波長60cm、出力2.5kw、重量70kg)陸上用対空射撃用「四号一型」(波長1.5m、重量5トン)などの試作品が19年、20年にずれ込み、また水上射撃用電探「三号二型」(波長10cm、出力2kw、重量5トン)の試作も予定より二ヶ月も遅れ、決戦に間に合わなかった。

製造上の問題点、資材の絶対的不足と粗悪品の横行。

例えば、ニッケルの代わりに純鉄、トリタン線の代わりにタングステンにトリウムを塗布、加熱して使用、ニッケルは香港のニッケル貨幣を再鋳して使用、純度が良いので各製造工場で香港コインの争奪戦が起ったという。その他、もろもろの部品、例えば、プラグのコンセントの接続不良などが頻発。また配線ミスが多発した(徴兵による熟練工員の不足) 。特に電波兵器の心臓部に相当する真空管の不良率の増大と、その寿命の短さは(100時間程度)は顕著であった。

参考までに、米軍は昭和18年の時点で、「艦爆搭載の対艦見張りおよび雷撃補助用レーダ」(波長60cm、八木アンテナ)B-24搭載の全方向パノラマ・レーダ」(波長10cm、回転アンテナ)、「夜間偵察機用レーダ」(波長1.5m)など四種類の航空機用レーダを装備していたさらに、CRT表示器に残像効果塗料を施した平面位置指示器(PPI)を使用し、またグランドおよびシー・クラッター除去のため移動目標指示器(MTI) を備えていた。 それにより検出した目標の位置、進行方向、移動速度を算定することができた。




ソナー(水中音響兵器)の開発

水中音響兵器は捕音器を用いて音源を探査し、その感度の高い測定方位を評定する水中聴音機(米国ではパッシブソナー、英国ではハイドロホン)と、音波を発射してその反射音を捕らえ、その反射音源の方位と距離を測定する水中探信儀(米国ではアクティブソナー、英国ではアスエティク)がある。

海軍は昭和初期から音響兵器の必要性を痛感し、技術導入および独自の研究を進めてきた。
1930年(昭和5年)、米国のMV式聴音機を輸入、1932年(昭和7年)にドイツの保式聴音機を輸入。国産化を図ったが達成できず、1933年(昭和8年)年、ドイツから技術者を招聘してやっと国産化に成功した。


「93式探信儀」
1936年(昭和11年)、フランスからSCAM製探信儀を輸入し、それを参考にして日本初の水中探信儀を製造。

       緒言:周波数17.5ヘルツ、探知能力12ノットで1.300m、測定誤差100m、指向性12度、方位誤差3度、失探距離500m、表            示は記録ペン読取式。装置に整流覆がないため周辺雑音および振動によるノイズが多いのが欠点。駆逐艦「朝潮型          」以降に装備


「96式水中聴音機」(小型艦艇用)(補音器16個)

1941年(昭和16年)にドイツを訪れた軍事視察団からアクテイブ・ソナーの情報を知り、現物と図面の入手を図った。入手までに相当な期間を要するので、ドイツのパッシブ・ソナーを模倣して昭和18年から水中聴機の本格的に生産を始めた。

零式水中聴音機」(大型艦用) (補音器30個

「4式水中聴音機」 捕音器を80個に増加。駆逐艦「秋月型」に装備。


1943年(昭和18年)初頭にドイツが開発したアクテイブ・ソナーを積んだ仮想巡洋艦が横浜港に到着、関係者に公開された。技術音響研究部と日本電気はこの機器を参考にして用途の異なる四種類の改良型を開発することになり、昭和18年後半から音響兵器の生産の重点を聴音機から探信儀に移行した。

「3式探信儀」ドイツのS型探信儀をモデルに開発。整流覆を付け、表示はブラウン管方式。

       緒言:周波数は13および16ヘルツの2段切換え、探知能力12ノットで2.000m、測定誤差100m、指向性3度、方位誤差2度、          失探距離150m。昭和19年以降、全艦艇に装備。


しかし潜水艦の艦長は自分から音波を出すのをいやがり、殆ど使用されなかった。用兵側は戦争末期にやっと方針転換を図ったが、もはや装備する艦艇がなく、製品の多くはメーカの倉庫に放置されていた

実際、アクテイブ・ソナーの運用には、水温、海流状況の変化など四季にわたる精密調査を経て作成した太平洋全海域の「ソナー・マップ」が不可欠である。

参考に、米軍の対潜水艦作戦は、複数の小型艦艇によるパッシブ・ソナーの交差法による位置評定およびアクテイブ・ソナーによる距離の決定、および捜索・チームの小型空母から発進した対潜哨戒機の投下するソノブイの使用を含め組織的な運用により行われた。それでなくても、海中でドラム缶を叩くようなエンジンの騒音を発する日本の潜水艦(遣独潜水艦を見たドイツ側の批評)の所在を評定するのは比較的に容易であったことだろう。

                 海軍技術研究所(エレクトロニクス王国の先駆者たち)  中川靖造 参考

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