香港、返還前後 
「副題;香港は中国の実態を表すショーウインドウ」

      (返還のことを中国では「祖国回帰」と言い、「奪回」という者もいる)

はじめに、英国による香港の植民地の形成の歴史

 

 英国による阿片の不法搬入密売に抗議した中国に対して英国は1842年8月、派遣軍を送り南京城外に迫り、「南京条約」を締結させ、これにより「香港島を割譲」せしめた。さらに1856年10月には些細な事件を取上げてフランスと連合して広州を占領、天津、北京にまで軍を進め、「天津条約」(1858年6月)、「北京条約」(1859年10月)を結んで「九龍半島の先端部を英領」とした。真にあくどい手口である。

 日清戦争で清朝の弱体ぶりを知った欧州各国は競って中国侵略を進め、英国はこの機会に「新界」の割譲を狙ったが、列強との関係を考慮して「99年間の租借」で妥協し、1898年6月、北京で「香港地域拡張に関する条約」に調印した。これにより香港島、九龍、新界からなる植民地香港が形成された。重要なこと「香港島」「九龍」割譲、英領となったのに対して「新界」のみが租借となったことである。特殊条件を伴った植民地の誕生である。

 香港の水の供給の大部分は「新界」からのもので、また租借地と割譲地の境界線が啓徳空港の新滑走路を横切っているので、「新界」の租借期限後これを返還(中国では回収)した場合、割譲地のみの香港は成立し得ない事情にあった。香港はまさに特殊な事情の上に成り立っていたのである。

返還前の香港

 

  香港の人口は第二次大戦で日本が占領するまでは175万人で、日本の方針「生産性、食料事情に見合って適性規模」としての60万人までに削減され、100万人以上が香港を追われた。爾後、日本の敗戦後、中華人民共和國成立(1849年10月)に時点では236万人に達し、返還時の640万人前後から現在は650万人以上にもなった。

 香港はこの僅かな人口に比して世界で八番目の貿易取引量を有し、コンテナ貨物の取扱い量の世界の五番目に入っていた。一人当たりの国民総生産(GDP)もアジアでは日本次いで二位を占めていた。1993年の香港金融市場はシンガポールの二倍で、東京市場に迫り、1995年当時も変わりなかった。 香港はアジアでは台湾に次いで親日感情の良い国といわれてきた。

 サッチャー首相は1982年9月、ケ小平との初の会談後、1983年になって香港返還を決意した。そしてその返還までの間に数度香港を訪れたがその都度、「自分の政治生活の中で最大のミスを犯した」と追憶している。このことは新聞でも報じられている。、それは返還に関して香港市民の意思を問わなかったということであろう。即ち、シンガポールのように「香港独立」の選択肢を示せなかったことにある。

 サッチャーのこの悔悟は1984年9月、ロンドンにおけるアメリカ記者に対する談話でも「もし、香港の地位が特殊なものでなく、租借条約が存在しなかったら、香港はすでに何年も前に独立を達成し、もいう一つのシンガポールになっていたであろう」と述べている。

 

返還直前

 

 返還決定後、英国は抜け目なく、香港を去る時に植民地から撤退する時の常套手段である三つの政策を実行した。第一はインフラの整備、即ち、ランタオ島に新空港(滑走路2本)を造成し、また4本のトンネルで九龍と繋ぎ、英国の企業に工事を受注さでせて利益を獲得し、第二はインフレを促進して土地や不動産の価格を高め、それを売却して植民地の資本を本国に持ち帰り、第三は泥縄式に急速な民主化を実施し、撤退後の理想的な政治体制を作り、影響力を残すというパターンである。

 第三の民主化について、香港の政治制度は決して民主主義的なものではなかった。香港には政党は存在せず、立法評議会は官職議員と総督に任命された民間議員からなり、全て政府の政策に賛成票を投じ、かっての日本の大政翼賛会的な形式的なものであった。自由公正な選挙制度もなく、居住、移動、集会、言論等の基本的自由はあったものの厳格な英国式権威主義体制下にあった。 

 返還までのニ年間に毎月一万人以上が香港居住の身内を頼って入国し、今や正確な人口統計は発表されないが650万人〜680万人程度に達し、居住条件は益々厳しくなった。 1996年、返還前に香港総督のパッテンが定石通りの規制緩和を行ない、インフレを昂進させ、中国の投資も加わりものすごいことになった。一流ホテルの宿泊代は東京の二倍、2LDKの家賃が月40〜60万円もする。10年前からのブームに乗って働きに来ていた千数百人の日本人のOLは1DKを間切りして協同生活を強いられ、大半は日本に帰国してしまった。しかし実力あるキャリヤー・ウーマンの公認会計士や証券のディーラー、デザイナーなど専門職はなお頑張っている。 

 6月30日、返還の前日、香港滞在のある日本人がもよりの恒生(ハンセン)銀行のATMでカードを入れて暗誦番号を入れると「暫定使用(ただ今使用できません)の文字が現れた。慌てて別の場所にあるキャッシュ・ディスペンサーの所に行くと誰の人がいない。やはり金はでてこなかったという。街から金が消えてしまった。香港市民が何よりも信用する金が街から姿を消す。それは市民が翌日迎える返還に対して感じている不安の本音なのだろう。

 

返還後

 

 中国は「返還後50年は現状を維持する」といった舌の根が乾かないうち、香港は急速に変貌しつつある。悪い方に。香港人が恐れたのは、治安が悪くなり、賄賂が横行し、そして言論の自由がなくなるの三点であった。

 治安については居住条件の悪化と、一攫千金を追う中国本土からの入國者のあくどい商取引の横行に伴い既に悪化の兆しがみられるが、賄賂についてはイギリス統治下でクリーンなことで有名だった公務員(英国の置き土産)が大半残ることになったので急にはひどくなることはなかろう。

 しかし、返還後に相当数の高級公務員が自主退職してカナダやアメリカ、シンガポール等に移住し、その後任の選定に追われ、また中学、高校の英語教員が1000名以上も退職してカナダに移住したのも事実である。今後は大陸からの「常に賄賂がからむビジネス」が多数持ち込まれることになるので収賄、賄賂にからむ犯罪が本土並に中国化されよう。

 さらに従来から存在していた幣(パン)、洪門の黒道、即ち、14kや三合会等を含む非合法の暗黒組織も、汚職、賄賂、収賄の普及に伴い益々表面化している。

 注:洪門系の14Kとは類似の組織3Kと同様に女、幼児、臓器の売買を含むあらゆる非合法活動を行なう中国系マフィヤで、香港に本拠を置く。 三合会も同じく洪門系の黒道組織。

 中国は香港を通して内陸部の国営企業の改革に要する救済資金を調達しようとして、株式に大陸系の雑多な会社40社余りや香港法人のペーパー・カンパニいーを多数利用しようとしている。そしてこれら中国系の上場企業について将来性があるような噂を流し、新株を発行して金を集め、その利益を本国に送金しようとしている

 香港は中国にとって金のなる木なのである。中国は「社会主義市場経済」という意味不明な体制で、株式の運用や取引の知識もなく、いかがわしい話しが一杯流れている。さらに、株主や投資家に対する配当の考慮もなく、株は投機としか考えていない。悪く言えば、株を発行して金を集めればあとは身をくらませてしまえばよいという感じである。

 言論の自由については次第に締付けがきつくなり、中国分析に欠かせない「争鳴」とか「九十年代」等の雑誌が次第に表現の自己規制をし始めている。有名な「アップル・デイリー紙」の発行禁止も時間の問題であろう。言論の統制により情報の流通が鈍化すれば金融市場の活力が失われるおそれがあるが、この面はインターネットの高い普及率により補足されるであろうから、それで金融市場の位置が保持できるならば香港の経済は当分安泰であろう。

 従来の香港はイギリス的な法治主義が普及していたが、中国本土の人治主義が次第に強められてきているので、香港の繁栄の基盤であった規則、秩序という大きな要素が失われいく。また従来の香港は広東語の世界で、同時に英語が公用語であったが、最近は北京語(普通語)が普及しはじめてきた。公用語の英語の趨勢により今後、香港が國際都市として存続できるかどうかが問われることになる。。

 

返還後の実態

 

 「一国両制度」と「港人治港」について、前者は一国とは香港が中国領土の不可分の一部であり両制度とは中国が社会主義体制を主体とするという大前提のもとに香港においては資本主義を認めるということである。「一国家」つまり統一が優先されるべきで、社会主義制度が前提なのでこれに反する動きは抑制、規制される。

 「港人治港」については中英共同宣言および香港特別行政区基本法では外交と防衛を除き、行政管理権、立法権、司法権その他の日常業務は香港住民の自主管理に委ねるとされているが、「港人治港」は「商人治港」「京人治港」そして「党人治港」へ実質移行しつつある。「党人治港」については多数の中央政府の高級幹部の子女(いわゆる「太子党」)が香港で商売を始め、中国本土並の公私の区別なく、大儲けして豪華な生活を繰り広げている。

 過渡期の香港で多くの混乱が起こった。パッテン提案、新空港の建設および開港時の混乱、民主化支援デモ、臨時立法会議の設置等々、現在まで尾を引いているのもある。

 今日の香港は伝統的な精神主義を維持してきた英国が去って、香港は中国本土で横行している中国式拝金主義、さらには強引な略奪主義がが剥き出しになってきている。

 前出の香港滞在の日本人からの返還3ケ月後の様子を聞いた。景気が悪化し、株価に続いて不動産価格も下落を続け、「八百伴(ヤオハン)」も潰れ、失業者が増え、観光客が激減したそうだ。それに追い討ちをかけるように香港型インフレンザ(生きた鶏を媒介して伝染する)が猛威を振るった。 「返還で香港の風水が悪くなった」との風評がある。それも中国の主席の江沢民という名前は「民に水が押し寄せる」という意味なんで良くないそうな。

 しかし返還後の旧暦の正月の前日の1月26日、中国産の生きた鶏の輸入も再開され、花園街は人、人の洪水で活気を呈していた、アジア全体を巻き込んだ金融危機、未曾有の不景気に見舞われた香港、いかし不景気になればなったで香港市民達は元気だ。この不景気に負けてたまるかという一種の気迫さえ感じられた。返還後の香港に対する不安と危惧は杞憂だったようだ。香港がどうなろうと一般市民達はなんでもかんでも金を稼でやるという筋金が入っているいようだ。

 

軍事事情

 

 返還に先立ち、人民解放軍の兵士約5000名が香港に配置された、この数はかっての英国軍の最盛期人員数に等しい。兵士たちはあえて広東語が通じない北京周辺の部隊から選抜され、ピッカピカの制服も凛々しく入香した。当分の間はカルチャー・ショックに驚くことであろう。

 軍港は従来のセントラル地区(中心地区)にあったタマール基地に英国海軍の巡洋艦が三隻配置されていたが、ここを閉鎖して、93年に小島のストーンカッター基地に母港を移した。ここは空母も繋留できる程水深もあり、400mの埠頭を持つ新たな中国海軍基地が建設され、ここに旅湖(ルフ)型駆逐艦4隻と旅大(ルダ)型駆逐艦8隻が配備されている。旅大型は米ゼネラルエレクトリック社製のLR2500型ガス・タービン・エンジンを備え、艦対艦ミサイル発射装置とフランス製クロタル艦対空ミサイル防空システ、さらに324 mmホワイトヘッド魚雷発射台を装備した強力な駆逐艦で、改良型レーダ、発射制御装置、可変型ソナー水中探知機、ハルビン型Z9Aヘリコプター2機を搭載している。

 中国海軍は既に保有している漢型原子力潜水艦、明型およびロメオ型潜水艦に加えてのキロ級潜水艦10隻を増加就航させたので、新基地に対してその数隻が配備されることになろう。

 これで中国は1990年当初にパルセラ(西紗諸島)の大興島に建設した2600mの滑走路を持つ空軍基地の戦闘機をロシアから購入した最新鋭戦闘機(Su27)およびMIG29の模倣国産の殲(チャオ)7型戦闘機等に換装配備し、香港の新海軍基地とあいまって南支那海の制空、制海権を確実に確保したことになる。即ち、南支那海は中国の湖になったのである。

 

中国の本音

 

 香港問題に関するケ小平の数々の発言の中から、「港人治港」(香港人による香港統治)には境界線と基準がある。つまり、それは愛国者を主体とする香港人が香港を治めることだ。そして愛国者の基準は自らの民族を尊重し、祖国の香港に対する主権行使を誠心誠意擁護し、香港の繁栄と安定を損なわないことだ、と述べている(1984年6月)。

 また、「香港の安定は経済の発展以外に安定した政治制度が必要だ。私は現在の香港の政治制度がイギリスやアメリカの制度を実行するものではないといったことがあるが、今後も西洋のやり方をそっくり持ち込むべきではない。もしも無理にでも持ち込むなら混乱をもたらすことになる。とも述べている(1988年6月9)。その考え方は、何事も一歩一歩漸進的なやり方が必要との認識であった。

 ケ小平亡き後、なぜ中国は世界の注目の下で短兵急に國際公約をかなぐり捨て、香港の中国化を急速に進めようとしているのか。

 それは香港との結び付きで急速に発展し、従来から北京に背を向けがちな広東省(孫文の郷里)が台湾との結び付きで経済発展を遂げている福建省等と連合し、香港がその中枢的な役割を演じることを北京が恐れ、香港を従来のような自由の天地にしておけば共産党一党独裁が崩壊しかねる震源地になりかねないからである。

 既に時代の流れで中国大陸は沿海地方のみでなく、次第に香港化している、北京はそれが怖いのである。その流れを止めなければ自分達が危なくなるからである。即ち、北京の指導者達は経済の発展と社会主義体制下の一党独裁の矛盾と乖離に追い詰められているのである。

 

 

回想  思えば、忌わしい恥ずべき阿片戦争の産物として99年間(即ち、國際条約上永久という意味)の「新界」の租借が返還(中国では回帰)となったのは何故なのか、最初は強引だったサッチャーがなぜ途中から軟化し、ケ小平の「香港回収についての強い決意」に屈したのか。天安門の階段でよろけたサッチャーに一体何があったのか。

 ここに歴史を振り返ってその理由を推理してみよう。

 第二次世界大戦後、中国の国民党軍(蒋介石)と共産軍(毛沢東)の内戦で勝利した毛沢東は中華人民共和國を建設し、世界に対してその承認を求めた。真先に英国のチャーチルがその新国家を承認し、その引き換えとして「新界」を含めた香港の永久割譲に関する秘密協定を締結した。99年、即ち、永久にという本義を相互に確認した文書である。

 当時、共産軍は一応大陸を制圧したとはいへ、各地で国民党軍の残敵掃討作戦を展開中でもあり、また台湾に逃げた蒋介石の反攻に対する対処もあり、さらに長年の戦乱で荒廃した大陸の修復におおわらわな時期でもあった。香港の将来を洞察する余裕がかったのが実態であろう。

 毛沢東の中華人民共和国新政府は「新界」の返還を要求したことはなかったが、各種の不平等条約のためその有効性を認めることもなかった。しかし、国内の諸事情により当分の間、香港の現状を黙認するという柔軟な姿勢をとった。即ち、香港が国民党の基地になったりしない限り、香港における英国の存在を受け入れるというものであった。

 この秘密文書は英国政府の公文書局に厳重保管されていたが、返還交渉が近づくのに備えてマイクロフィルムに写して永久記録を作成しようとした作業中に撮影装置の不備で発火して焼失してしまうと言う椿事が発生した。

 その報告を受けるまでサッチャーは香港の「繁栄と安定」のため香港の「継続統治を策定していた。このことは1979年3月末から4月始めにかけて香港総督マーレイ・マクルホースが中国を始めて公式訪問した際にケ小平の「香港の投資家は安心しなさい」という有名な発言で裏付けられたと考えたのであったが・・・・・・・・・・。

 返還交渉は1982年9月以来開始され、難航の末に1984年12月の合意文書の調印で妥結した。英国は返還後の行政管理の継続を求めたが中国に拒否され、中国はその代わりに返還後50年は香港の資本主義制度を変えず、香港の人々が香港を治めるという「一国ニ制度」のもとでの「港人治港」を約束した。

    

     英国のこの最終決断は次の理由からでも適切であった。

    1.英国の忌わしいアヘン戦争の歴史とそれに対する中国人の怨念を清算する。

    2.植民地からの撤退という歴史の流れに従う。

    3.長年の英国の蓄積した資産の温存と有効活用のため。

    4.中国の武力による奪還に対して適切な対処がとれない。

      ・米国の第7艦隊の派遣要請は根拠がない。

      ・オークランド紛争と異なり、巨大な中国の面前での戦争に勝利できない。

      ・第二次大戦で日本軍に簡単に(約二週間で)占領されたという苦い経験。

            

     

                                      

 

 

 

 

 

 

 

 

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