中島 二式陸上偵察機 J1N1-R


 昭和13年6月、海軍は三菱に「仮称13試双発三座戦闘機兼爆撃機」の案を提示した。三菱では当時、零戦の試作などで設計人員が不足していたにで、翌年10月、、海軍は中島に「13試双発三座戦闘機」(J1N1)の名称で本機の試作を命じた。

 その要求性能は零戦よりも速く、一式陸攻と同じ航続距離を持ち、零戦と同じ空戦性能をもたせ、そして航法や通信装備は陸攻並でえ、武装は機首に20mm機関銃1、7.7mm機銃×2のほか後部にも7.7mm機銃座を二基設けるというものであった。

 試作1号機は昭和16年5月にやっと初飛行した。本機は空戦性能こそ要求には合格しなかったが、極めて優秀で、全備重量であらゆる曲技飛行ができ、旋回半径も単座戦闘機にそれ程おとらないものであった。しかし、後部銃座(カバーを開くと軍艦の砲塔のように連装機銃が二基現われ、中席の航空士がレバーで油圧により遠隔制御する構造)が量産性の点で実用化不適と判断され、試作機は後部銃座なしで完成された。

 太平洋戦争の勃発で、本機は速度と航続距離を買われて偵察機として採用され、「二式陸上偵察機」(J1N1-C)の名称で量産に入った。ラバウルに派遣された二式陸偵は機動部隊の捜索やオーストラリア北部の偵察に活躍した。

 昭和18年の春、ブインの第521航空隊司令の小園中佐は二式陸偵に20mmの斜め銃をつけて夜間戦闘機として使用することを考案し、大きな成果を挙げた。これが夜間戦闘機「月光」(J1N1-S)である。その後、「月光」は通信員席を廃止して後部胴体を段なしにして複座とした。機首にレーダーを装備してB-29の本土空襲を邀撃したのはこれらの後期型である。
 
合計生産機数は各形式を通じて477機。一部は終戦直前、沖縄特攻として使用された。



  


   




  

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