「語り部の責務」
美保海軍航空隊基地の失なわれた記録の追跡

 

   (平成20年9月9日、境港ロータリークラブの例会(夢みなとタワー)で行ったスピーチ(30分)はこの論説から概略を引用しました)

 始めに

 回想(昭和20年4月-8月の美保海軍航空隊の状況


  太平洋戦争も「大詰」に近くなってからのことで、当時、私は海軍801航空隊に所属し、横浜航空隊から山陰の米子基地に転していた、基地があった弓ケ浜半島の美しさは、当時の私にとって、(まるで夢の国へでも来たのではない・・・・)と思ったほどだ。 米空軍の空襲たけなわの東京や横浜の焼けただれた風景や、もはや「敗戦必至」となった絶望感が嘘のように感じられた。 白い砂地が初夏の陽光にかがやき、半農半漁の純朴な住民たちの穏やかな明け暮れと、死に向かう若者たちを乗せて空に旅たつ戦闘機の轟音とが、どうしても一つに溶け合ってこないのだ。私たちは、それぞれ分かれて農家の物置きや蚕室に分宿することになったが、やがて浜辺に第801空司令部が新設され、私は電話交換室長として掌通信長の下で勤務することになり、司令部の傍の農家の離れに引き移った。外出時の私の下宿は余子村にあった佐々木虎太郎氏のお宅であった。   
       
                                     「食卓の情景」(池波正太郎)

  二つの海に囲まれ、どちらを向いても地名どおりの美しい眺めの美保基地松林の中に部厚なコンクリート造りの大格納庫や、ヨーロッパ風のシックな洋館の司令部などが点在。 もちろん大小いくつもの掩体濠もできていて、堂々たる面構えの基地である。本土決戦を控えた航空機集団にとって最後の最強の根拠地という感じは十分にあった。 事実、そこには艦上攻撃機(急降下爆撃)「彗星」はもちろん。艦上攻撃機(雷撃機)「天山」、さらに大型の「一式陸攻」、それに陸上攻撃機「銀河」も居た。、「零戦」はもちろん、局地戦闘機「紫電改」なども居たし、時600キロを超す最高速の艦上偵察機「彩雲」も居るなど、新旧、大小各種各様の海軍機が集まっていて、まるで生きている航空博物館の観さえあった。
 
 このため、隊員もさまざま、各種各様の航空隊から引き抜かれ、「特攻隊行き」と宣言されて来た人もあれば、「休養して来い」と言われ、ごく気楽にやってきた搭乗員も居た。機種の多様さと同様、搭乗員もまた多様であり、知らぬ顔同。
                                           「指揮官たちの特攻」(城山三郎)


  やがてこの半島にも、けたたまし空襲警報が鳴りわたり、偵察に来たグラマンが機銃掃射を浴びせて飛び去ることもあった。 ソ連が宣戦を布告した。基地は暗い空気に包まれ、残暑の激しい陽光が隊員たちの心を尚更いらだたせ、血生臭い事故が日ごとに増えてきはじめた。明日を知れない命には理性も軍律もなくなり、特攻隊員は凶暴になった。お互いに激しく口論したり撲り合ったり、港町の娼婦を奪い合って拳銃を撃ち合ったり、そればかりか農民たちにまで迷惑がかかるような事も起きはじめた。日が暮れると農家では固く扉を閉ざし若い娘たちは外を歩かなくなった。風紀を取締まる巡羅隊が強化された。電話交換台は器材の不足もあって、なかなか完成を見なかった、とりあえず、私は巡羅隊勤務を命ぜられたのだ。巡羅隊本部(宿舎)は余子村でも豪農といわれる家の蚕室と物置を改造したものであった。                 
                                                「夢の階段」、(池波正太郎)

      

      美保海軍航空隊年表(予科練空))

 (昭和18年10月1日、第19聨合航空隊に編入)
 (昭和18年10月1日、甲種飛行予科練習生13期 1.210名入隊)


 昭和19年4月12日、美保海軍航空隊入隊。第14期甲種飛行練習生、海軍二等飛行兵を命ず。(20ヶ分隊、4319名)
              司令、高橋俊策大佐
              5月1日付け、一等飛行兵、7月1日付け、上等飛行兵、10月1日付け、飛行兵長
 昭和19年7月25日、13期、予科練教程終了、飛行練習生課程39、40期に進む(鈴鹿、徳馬、築城、博多、福知山、峰山、谷田部)
 昭和19年9つき5日、15期一次要員入隊、(30ヶ分隊3495名))
 昭和19年10月20日、15期二次要員入隊(12ヶ分隊、1995名))
 昭和20年2月3日、鎌田司令、横須賀鎮守府に転任、第三代司令に山崎大佐着任。、
 昭和20年3月1日、練習聨合航空総隊解散、第23聨合航空隊に編入。二空港地作業本格開始、滑走路、掩体壕、誘導路等
 昭和20年3月12日、15期二次要員新川基地作業に出発。基地司令は前川少佐。
 昭和20年3月19日、二空に一式陸攻、九七、九九、彗星の艦爆、天山艦攻、零式水偵、飛来
 昭和20年3月27日、15期一次要員、新川基地作業に出発(美保空に残るのは14期のみ)。
 昭和20年3月30日、二空に二式大艇、銀河陸爆飛来、後に銀河は新川基地、鹿屋を経て沖縄特攻作戦に出撃

 (昭和20年4月1日、16期要員1.417名入隊)

 昭和20年5月21日、特攻予定者、合格者決定。200名。
 昭和20年5月29日、特攻予定者、予科練卒業式、総員見送りの中、美保空退隊。
 昭和20年6月1日、甲種飛行予科練習生教育中止。、14、15、16期、実施部隊に編入。
 昭和20年6月30日、軍令機密第281939番電により、美保海軍航空隊解隊、舞鶴海軍警備隊(美保派遣隊)付きを命づ。 
      
           「美保空十四桜会 敢闘録 第10号」(甲飛14期 河場憲治)
                                          
 () は編集者注 


 昭和19年、 美保海軍航空隊時代

 特攻機の轟音 
空には毎日、赤トンボ(九三式中間練習機)が飛び、特攻機(零式戦闘機二型改一、九九式艦爆、天山艦攻、銀河、彗星艦爆)の突つ込み練習が行なわれており、秋頃からは時々爆装した特攻機が九州の鹿屋航空隊に向かって飛び立っていった。吊床に寝ていて聞く 轟音は、永久に忘れない。
 滑走路工事 戦局いよいよ逼迫し、美保空が特攻隊の兵站基地となるため、滑走路の延長工事や、魚雷倉庫、爆弾庫、機銃陣地の構築等、美保と米子の飛行場には、あらゆる機種の飛行機が発着できる態勢作りが始まった。米子飛行場では、四方八方に飛行機の誘導路構築作業が始まった。松林の中に一機また一機と誘導して、敵機からの襲撃を逃れるためのものだった。
 

          「わが予科練の敢闘日記」 (甲飛14期 本田仁郎) 


 
山陰地域への初空襲
 
 
昭和19年8月10日の深夜、 B-29が浜田沖合いから進入し、中海、安来、米子上空を旋回し、倉吉市の山中に焼夷弾を投下して海上に去った。偵察飛行と推定される。

 
昭和20年7月24日、25日および28日にわたり、F4U,、コルセア,TBアベンジャーなどの襲撃があり、特に、28日の空襲は凄まじく、山陰線大山口駅近くで夜
行列車が襲撃され、40人以上の死者を出した。
                                      「蒼空」 貴様と俺、蒼空の会


 昭和20年7月25日の空襲で、空母「シャングリ・ア」から飛び立った戦闘爆撃機が対空砲火を浴びて美保の北10マイルの洋上に不時着し、直ちに海軍救難飛行艇により救出された。

                                      太平洋戦争下、連合軍の米子空襲について
                                       -米国戦略爆撃調査団報告(USSBS)他より (米子市、岩佐武彦)

 
  
  

新川秘密基地(大社基地)

 
美保基地の甲飛15期生1.600名が出雲平野の斐川(新川)の本土決戦秘密基地(正式名称「大社基地」建設に派遣。 ピーク時には14期、16期生を含めて   約3.000名の予科練生が建設作業に従事。 美保基地から銀河(陸上攻撃機)28機が秘密基地に展開。
 ・20年5月、陸軍の重爆撃機キ67「飛竜」(海軍名[靖国」)2ケ戦隊が美保基地の第762空に配属され、飛行第98戦隊、楓部隊第3中隊の4機が大社基地に  移動した。
                                          「川の中の飛行場」汗と涙の青春−新川基地」 (出雲市、足立 正)



   
                   「大社基地」  
         
  


沖縄特別攻撃への発進の記録

 ・株式会社「レンゴー」の長谷川薫社長は、昭和20年5月25日早朝、第二美保航空基地かfら「銀河」編隊12機を率いて沖縄東方海域で米海軍機動部隊え  の攻撃に向かって発進、艦艇を攻撃中、対空砲火により被弾墜落、意識不明で漂流中に米駆逐艦「キャンベラ」の決死的救助作業により救われた経験の  持ち主である。
 
                                                  財団法人水交会 「水交」No.574(平成15年11月号)
                                                 日本経済新聞「私の履歴書」(1998年11月1日) 
                                                「回天特攻」  小島光造 (2000年9月28日 発行) 

 ・706航空隊日誌(昭和20年3-5月)(防衛研修所図書館資料)
  鹿屋を発進基地として菊水6-10号作戦および第11次航空総攻撃に参加, 11機が美保基地から特攻を実施。   

                                                     米子市 岩佐武彦氏 調べ


 
・呉沖海空戦に対する出撃(7月24、25日) 紀伊半島沖を遊弋する米機動部隊の捜索および攻撃(戦果不明)
  
木更津基地から流星12機出撃、大分基地、801空から陸攻3機出撃、新川基地、702空、501飛行隊から銀河8機出撃

                                                   「流星戦記」 吉野泰貴 大日本絵画
 

                                    
 
美保海軍航空隊に在籍した関係者の記録(記録写真を含む)
 
  海軍大尉 横原徳一、美保空予科練14期偵察要員36分隊分隊長(中尉)(鳥取県西部海友会初代会長、平成10年5月30日、歿
  海軍中尉 杵島隆 予備学生13期、美保空分隊士 写真家(市谷杵島スタジオ) 没
  海軍上等兵曹 坂本定雄 美保空予科練教員(鳥取県西部海友会第二代会長)、没
  海軍二等飛行兵曹(予科練14期) 河場憲治 (鳥取県西部海友会幹事長) 記録「敢闘録」 没、
  海軍二等飛行兵曹(予科練14期) 本田仁郎 著書「わが予科練の敢闘日記」  
     
  

                  美保海軍航空隊歌〈美保の若鷲」

    一  山は大山山陰の                      四  今日も翼の下に見る
         峰の白雪青空に                           船上山の長年が
           溶けて春風春霞                            あの忠烈を鉄石の
             飛ぶ若鷲よ 美保の海                        胸に飛ぶ飛ぶ 若鷲よ



「鳥取県誌および境港市誌」

 8月15日、終戦の日を迎え、戦争終結となった美保基地は、軍事基地であっただけに終戦による混乱は大きく、特攻隊、航空隊の解散、物資の放出などで揺れ、中でも8月25日ごろ残存の飛行機26機の焼却はその頂点で、美保海軍航空隊の終末をを告げる炎でもあった。 
                                                           


 
高尾山に配備された高射砲陣地

 島根津半島の高尾山に八門の高射砲が配備され、遮蔽、隠蔽して陣地を隠匿していたが、敗戦間際に美保湾上空に飛来した米軍飛行艇(双発のマーチン型)に対して初めて一斉射撃を行い、被弾した飛行艇が島根半島北方海域に着水、その上空をグラマン戦闘機が警戒、飛来した同型機が乗員を収容し、被弾機を水没させて退去したという話が語り継がれているが、一切の記録がない。現在調査中。


    
                                   高角砲陣地の予想位置(監視所、指揮所等を含む) (調査、確認を要する)



1失われた記録の補填

1)美保海軍航空隊

航空自衛隊美保基地は旧帝国海軍の美保海軍航空隊(第二航空隊)の跡地です。今や、旧海軍をしのぶ建物は掩体壕(艦上攻撃機「彗星」)を除いて皆無です。

          

城山三郎の「指揮官たちの特攻」に、終戦前の美保基地の状況が見事に記述されています。第二航空隊内にあった「ヨーロッパ風のシックな洋館建の司令部」も老朽化の理由で平成10年代に建て替えられました。

第2航空隊に隣接する南側地区の第一航空隊敷地には、予科練練習生の面会所跡に美保中学が昭和22年に開校し、また酒保跡には美保学園があり、共に昭和22年当時は旧海軍の建物を使用していた記録と写真が残されています。また美保中学の構内には解体した兵舎の建材を用いて作った建物が現在も倉庫として使用されているのを確認しました。また旧診療および病棟の東側の道路脇にに用途不明(非常用電源室か)の堅固なコンクリート作りの建造物がほぼ原形のまま残されています。


             

鳥取県誌および境港市誌には共に昭和14年から18年までの航空隊の建設についっては用地の強制収用から滑走路の建設など詳細な記録が残されていますが、昭和18年の航空隊の開隊から昭和20年の敗戦までの公式記録は一切が焼却されたため数行の記録しか無く、また連合軍(英印軍)の進駐から米軍の常駐に至る10年余の記録も簡単な内容に留められてています。この空白を埋めるのも語り部の責務の一つと存知ます。

30数年前(昭和53年)の航空自衛隊美保基地開庁25周年記念に、写真家杵島隆氏(予備学生13期として美保航空隊に在籍)の撮られた膨大な写真が大篠津の実家に保管されていることを知り、東京市谷の杵嶋スタジオに電話してその使用の許可を得、基地写真班で古い写真を修復するなどして接写し、大型のパネルに複製し、それを基に「写真で綴る基地の30年あゆみ」写真展示を行いました、その大半が基地の広報館に常時展示されています。

海軍時代の配備航空機の種類および訓練の実態などその概要を把握しましたが、なお資料の収集、分析を行っております。

 美保航空隊(一空)(二空の南側の地域)当初は予科練13期および予備学生13期の基本飛行訓練(グライダーおよび赤トンボ練習機による)を実施していましたが、昭和191月、第152攻撃隊(彗星)の乗員教育訓練が始まり、さらに昭和204月に第5航空艦隊701空、攻撃103および105飛行隊が部隊再建および戦力急速回復訓練のため配置されました。飛行隊長、江間中佐.


                       

     

                            
          航空自衛隊美保基地構内、正門の傍に建立                                5周年祭記念(文鎮)




                              艦上攻撃機(急降下爆撃)「彗星」

              

この彗星は厳しい急降下爆撃および後方防御のため艦上攻撃機としては危険な密集編隊飛行訓練を行っており、この中から終戦の大詔がラジオ放送された後に、第五航空艦隊司令官の宇垣中将直率の最後の沖縄特攻に美保から大分に移動した中津留中尉の率いる19機中の11機が参加しました(815日には海軍総隊司令長官から「対ソ、および対沖縄積極攻撃中止」の命令が大分の第五航空艦隊司令部にも伝えられており、この特攻は命令違反の「私兵特攻」とみなされます)。

第二美保航空隊(現在の航空自衛隊美保基地)では701空攻撃205206飛行隊が展開。陸上爆撃機の乗員養成訓練を実施。

             陸上爆撃機 「一式陸攻」、  下 「銀河」
                 

20年月6以降、美保航空隊は第5航空艦隊901空に編入され、戦力強化訓練が厳しくなりました。また「靖国」(陸軍の重爆撃機「飛竜」)を若干機数海軍が使用した)も含まれていました。
 これら機種の外、艦上攻撃機「天山」、偵察機、「彩雲」、対潜哨戒機、「東海」、戦闘機「ゼロ戦」、局地戦闘機紫電改」等が見られ、これらは沖縄特攻参加のための移動の途次、および戦力温存の退避のためかと思われます。

また陸上攻撃機「靖国」陸軍の爆撃機「飛竜」を海軍が借り上げて雷撃「使用)が十数機、配置され、訓練を行っていたことが確認されている。
その一部は大社飛行場に移動した。


                
                陸海軍を通して傑作機と称され、最高速度537km, 燃料タンクの防弾性を高め、、離陸時に30度
                の上昇角度で、独特なエンジン音を発して飛行する姿を多くの住民が目撃している。

 激しい飛行訓練の間にはしばしば航空事故が発生し、中海に向かって離陸直後の「銀河」が失速して中海に墜落したり、または美保湾に向かって離陸した「彗星」がエンジンから火を吹いて日本海に墜落する状況などを目撃した記事が誠道中学第2期生「私家版」私の記憶(永井三徳氏)に見られます。当時の基地内の部隊葬には境の明治町の本厳寺住職、西本龍芳和尚が参加したことが知られており、部隊葬の写真も残されています。訓練事故の回数などは過去帳に記録されているものと考えられます。


 第701空の美保航空隊とは別に、昭和20年6月、飛行部隊の改編、および改称により横浜空(磯子の飛行艇部隊)から第801空になった部隊の司令部が美保に移動し、弓ケ浜半島の海岸の傍(福定村付近と思われる)に新設され、同時に電話交換室も併設されましたた。これは飛行艇(二式大艇)の集結地であった香川県の詫間航空隊がグラマンの機銃掃射で殆ど破壊され、16機中の残存3機が戦力温存のため日本海の七尾湾に分散退避したことと関係があります。

 昭和20年の8月の終戦直後、この分散退避させていた3機を詫間に集結させるための飛行で、1機がエンジン不調と燃料欠乏のため821日、中海に不時着し、美保航空隊に救援を求めましたがは既に解隊後のため支援が得られず、命令により銃撃、炎上させて中海に沈没させた事実が記録されています。(「帰ってきた二式大艇」碇義明 光人社発行)


敗戦直前の兵士の士気の低下(多数の兵士がが農家に分宿したため管理、監督の欠如、さらに沖縄特攻に参加のための移動途次の乗員達の気分の高揚による騒ぎや争い、あるいは深夜農家に忍び込む等)で周辺住民および港町の紅灯街や酒場は多大の迷惑を蒙り、治安が悪化し、不詳事故の発生を防止するため巡邏隊(警務)がが強化された事実が記録されています。さらには、敗戦後の基地の混乱、主として准士官、下士官等による資材の不正流出、住民による無秩序な物品、食料および衣料品の収奪、持ち出しが頻発しました。(全国共通)

航空隊および兵器廠(練習機、赤トンボの製造、米子女学校の生徒がその翼の絹張り作業に動員されました)の所在のため、周辺住民は爆撃および銃撃による大きな被害を受ける等、忌まわしい記憶が残りますが、戦時下として止むを得ないものが有りました。

 しかし飛行場の存在が現在の米子空港の発展に繋がったことは、これは海軍の大きな遺産でもあります。また些細なことですが、三軒家では精麦用に海軍から電動モータの提供を受けていましたが、敗戦後それを利用して精麦、精米工場に発展した例などもあり、
また通信室から持ち出した真空管や各種電気部品および工具を利用してラジオ屋を開業した元兵曹の話もあります。

舞鶴工廠美保分工場の南半分の施設を利用して誠道中学校が発足しました(昭和236月)。現在その跡地(誠道町)に記念碑があります。さらに、同じく、美保中学校1空構内の予科練の休憩所の兵舎を利用して発足し、さらに、美保学園が美保中学校の東側にある酒保の兵舎を利用して発足し、それぞれ改修、および新築を経て現在に続いています。両校の校門の前の道路には予科練が植樹した桜並木が残っています。

弾薬庫の跡地は現在、幸神町の「市民の森」として親しまれており、周囲の土盛りの土手に松と桜の木が生い茂り、桜は境港市の名所の一つになっています。

航空隊の北側地域(現在の美保基地の官舎地区の周辺)にあった一式陸攻の整備用木造格納庫は戦後の豪雪で崩壊し、痕跡を留めていませんが、一式陸攻退避用堰堤一部ががその傍にある掩体豪の残骸の一部と共に美保基地の官舎地区内に残っています。



参考資料等

「指揮官たちの特攻」城山三郎、815日の特攻隊員」吉田沙知、「予科練、甲十三期、落日の栄光」高塚篤、「敢闘録」美保空甲14期、河場憲治、 「わが予科練の敢闘日記」本田仁郎、「蒼空」美保海軍航空隊台6分隊(第14期甲種飛行予科練習生)蒼空の会記念誌、 「帰ってきた二式大艇」碇義郎、 「海潮音」影井亮、 「私の交友抄」朝日新聞鳥取支局編、 誠道中学60周年記念誌、「美保ケ丘」(米子市美保中学創立40周年記念誌)、 「わたしたちのまち20世紀」(中浜地域史)、「青春の忘れもの」「食卓の情景」および「夢の階段」池上正太郎(注:同氏は横浜海軍航空隊(飛行艇部隊)に在籍し、昭和17年11月1日の飛行部隊改編および改称で第5航空艦隊に編合された第801空(美保)に転属し、昭和20年7月、801の司令部が弓ケ浜半島の福定村の海岸の傍に開設され、その電話交換室長(兵長)として勤務し、自ら経験した多くの事実を上記の各小説の中で発表しています。貴重な記録です)
「川の中の飛行場」
足立健太郎(島根県出雲市の東方、直江町に設けられた本土決戦の秘密基地としての「新川飛行場」、美保基地で予科練教育を中断された甲14、15,16期の練習生が多数飛行場建設の土木作業に従事したことを含め、「銀河」の出撃や敵機の来襲について詳細な記述がなされている。



             



            


          
          


     


  誠道中学校
  (第31海軍航空廠美保分工場の屋舎を利用して開校された)


             
                
                          

        
  
   跡地に建てられた記念碑
              

    

 美保中学校
                 
       


                                   美保中学校創立50周年同窓会名簿から
                            


                 

                             松江市美保関町 山本貞夫氏 提供資料


 昭和20年6月下旬のある夜、B-29が美保関から惣津に至る間に、100メートル間隔にドラム缶大の機雷をナイロン製の落下傘につけて投下した。機雷の上部には磁気棒があり、側面には時限装置の付いた船舶撃沈用のものであった。翌日、機雷処理班が来て褌一つの姿で分解した。しかし惣津海岸に落ちたのは人家に近かったので、部落会長はじめ役員全員が機雷に網をつけて数隻の舟で沖に漕出し、人家の危険区域外に出した。その時、大きい渦の発生とともに大爆発し、舟も人も100メートル余りも吹き上げられた。手釣りの鉄に磁気が感じたのか不明である。一瞬にして16名の命を奪った。この6月28日、惣津沿岸で起きた機雷の大爆発は僅か60軒の集落で一瞬にして16名の人命を奪い、惣津に残っていた男性のほとんどが犠牲になった。私はその日、海岸の地獄の光景を小屋の物陰でじっとみていた。言葉ではあらわせないほどの忘れられない大事件であった。その爆発の跡は一帯の藻場の中に白い円形の砂場になってすぐそこに見える。いかなる理由であれ戦争はだめだと叫びたい。山本貞夫氏

七類港沖の九島に海軍の特攻基地(人間魚雷)が急遽作られることになり、美保航空隊から予科練習生が七類峠を越えて毎日トンネル掘削作業に通ってきた。七類の国民学校の講堂とその北側の平屋建校舎(三教室)が軍の兵舎として接収された。講堂は基地建設作業に行く予科練習生の宿舎になり、教室は士官室、下士官室、娯楽室、物置になっていた。夕方には、下士官が練習生に対して振う樫の木の精神棒の音が聞かれた。その語、兵隊は舞鶴管区の東北、北陸、北海道からの召集兵が交代でやって来て作業した。士官は南方諸島、ニューギニアからの転属者であったであろうか。戦局の前途に対して悲観していた。
この頃になると、七類港には、常時、海防艦が入港し、境港の避難港として御用船が2.3隻入港していた。夜になると護衛されて何れかに立ち去り、また新しい御用船が来るという状況であった。海防艦の上甲板の側面には竹の簾が張りめぐらされていた。機銃弾よけとのことであったが、物資不足によるもので情けなかった。 ある日、美保航空隊をグラマン戦闘機が空襲した。一部は七類湾の海防艦に銃撃を加え、彼我の間で戦闘が行われた。空襲後、負傷兵は学校の裁縫室に運ばれ応急手当をされ、日赤病院の車で送られて行った。    高井富(元七類国民学校長)

                       

           

 

米英の進駐軍時代

 

 昭和2011月、米国陸軍コート大将により基地が接収され、第6軍第10軍団、24師団3連隊の部隊が進駐し、輸送機部(C-47,C-46)が配置されました。

 昭和21年5月、米軍の熊本移駐に伴い、英国軍クリステイ大佐の英連邦軍(イギリス、オーストラリア、インド)が進駐、C-47輸送機を主力とする部隊が配置され、戦闘機のカーチスホークの飛来などがありました。


      

  昭和25年6月25日、朝鮮戦争の勃発で、米軍が進駐し、軽爆撃機B-26を主力とする部隊に再編成されました。配備された部隊は第3爆撃航空団(WING),(A /B-26)、第17整備群、第6135基地業務群などで、1952-1953の時期の司令、Euqene .B .LEBAILLY 大佐の名前が記録に残されています。 作戦のコード名は 「Miho REMCO Operation」

 配備された第3爆撃WINGの約
30機の軽爆撃機B26(インベーダ)の中には対地攻撃機A-20(イントルーダ)(12.7o機銃16+4.合計20装備が多数含まれていました。 また一次的に第452爆撃航空団(WING)B-26の移駐もありました。

 朝鮮戦争の戦線の推移に応じて、双胴の夜間戦闘機P-61(ブラックウイドウ)およびこの朝鮮戦争で初めてデビューした夜間戦闘機P-82(ツイン・ムスタング)の姿が目撃されています。また62名の武装兵士を搭載可能な輸送機C-119(フライングボックカー)の離発着がしばしば見られ、さらにはトランジットおよび緊急着陸等で4発の重爆撃機(B-17)の飛来が視認されています。これは韓国首都の陥落により多くの要人の国外脱出の輸送の途次と考えられます.


 夜間戦闘機P-82(ツイン・ムスタング)は朝鮮戦争勃発前に第68全天候中隊(Sq)(10)機が板付配備されており、爾後、沖縄から板付および横田に4および第339中隊がそれぞれ進出し、合計3ケ中隊、30機が戦線に投入されていましたが、中国人民解放軍の人海戦術で地上米軍が随所で壊滅し、朝鮮半島の南端まで押し戻され、極東空運の拠点、金浦空軍基地を失い、第5空軍、第8戦闘爆撃機航空団(WING)の第314航空師団(Division) が日本本土に後退し,その一部が美保にも分置されました。(米国極東空軍の戦史と照合)。


                           輸送機C-119(フライングボックカー)
                   


 さらに胴体を赤や黄色塗装した無線操縦機(グラマンF4F)が有人の操縦コントロール機(グラマンF4F)と共に飛行している姿も目撃されています。この無線操縦機は離陸発進点までは整備員が手動で操縦し、また着陸後はジープで駆けつけた整備員が搭乗して駐機場まで操縦して移動する姿が視認されています。(新屋の矢田二郎氏および中野の福本鉄郎氏の証言)。)

                    夜間戦闘機P-61(ブラック・ウイドウ)については
「航空資料記念館」参照

                  

                 
      夜間戦闘機 P-82 (ツイン・ムスタング)

                    

   注: 緒言
エンジン:1860馬力×2、最高速度:776km、航続距離:3540km、武装:12.7mm機銃×6、 ロケット×16基、
            1000ポンド爆弾×4、総生産機数:273機(朝鮮戦争の終了で生産打ち切り)。

 
 その他、昭和25年から26年にかけて多数の黒人兵士が輸送機で立川から美保に輸送され、軍用トラックでで境町の波止場まで移動し、リバテイなどの軍用船で朝鮮戦線に投入されました。基地から波止場までトラックで移動する姿が目撃されています。大田の守備戦で歩兵第19連隊を主とする多数の戦死者が出たことが記録されています。

 弓ケ浜海岸海辺にある古い漁師のとまやを目標にして、プラスチック容器に白ペンキを充満した模擬弾を使用した急降下爆撃およびロケット弾の発射訓練が行われている状況が目撃されています。


 昭和25年には滑走路の延長や通信所の建設のため膨大な用地(135ヘクタール)の無償強制収用が計画されましたが、地元住民の激しい抵抗運動の結果、接収面積は当初計画の三分の一の51ヘクタールに削減され、1(10アール)当たり215千円の補償を勝ち取ることができました。(当時の相場は1反、45万円)。

昭和303月、第17軽爆撃連隊が米本国に引き上げました。

 昭和337月、多数の建設重機が払い下げられました。

                 
  

以上のような簡単な記録以外は一切の資料、記録がありません。この空白を埋めるため、ホウキ町二部の足羽喜代子さん(94)才(大阪の古屋女子英語塾卒)を訪問して約9年におよぶ通訳業務を通して見聞した英、米軍時代の実態の聞き取りを行い、昭和25年以降は、常時3000-から最大5000名の基地労務者、従業員の業務内容などを把握しました。これは戦後の混乱期において境町周辺の多くの住民の生活の糧を稼ぐ手段として無視できない実態であることをしりました。

米軍による海軍時代の兵舎の取り壊し、廃材の処分等、また、海軍の大型ボイラーを使用したボーイラー・ステーションの機関長を勤めた松本正行氏(海友会員)からの聞取り、航空機整備の作業員を務め引き続き航空自衛隊技術職員として勤めた口田氏(海友会員)、ガード・マンを勤め米軍撤退後に警察官になった方、雑役夫として働いた方など多くの聞取りを行い、米軍時代の基地の概要を把握することができました。
 さらに
C46輸送機で基地に後送されてきた多数の戦死死体の処理などは高額な賃金と共に忌まわしい記憶として誰もが積極的には話してくれませんでしたがその概要を知りました。現在も続いて聞取りを継続し、少なくとも記録に残すには二人以上の証言の相関が必要と考えております。 

 
 ちなみに米軍基地の従業員は終戦連絡事務所での採用の通訳等、および米軍直接雇用の労務者、雑役夫等を含め3.000人以上に達し、そのの職種は多岐に渡り、土木、建設労務者、ガードマン、ボイラーマン、消防隊のファイヤーマン、各種通訳、モータプールのドライバおよび車両修理工、ウエアハウス(倉庫の)荷役、航空機整備および洗浄員、サプライ・クラーク(補給書記、)映画館の掃除夫、カミサリー(スーパ・マーケットの売子、掃除夫、将校官舎のメイド、ハウスボーイ、兵舎の下士官室のルームボーイ、各バラック(兵舎)毎に雇われていたプレスマン(アイロンかけ、スチーム・アイロンを貸与)、将校クラブ、下士官クラブ、兵員クラブ、ROK(韓国軍)ガーデン等のバーテンダー、コック、ウエイター、ウエイトレス、KP(皿洗い)、ジャニタ(雑役夫)、P.]の従業員、ゴルフ場のレーバー(草取り)、ボーリング場のボーリング・ボーイ、ハイスクールの掃除夫、モータープール(配車場)のドライバー、車両修理工、デッド・トリータ(戦死体処理、浄化係)を含み、基地は一大コミュニテイの様相を呈し、従業員、労務者は多少に関わらずアメリカ文化の一端に接したのであります。通訳には海軍士官、特に学徒兵の予備学生の士官が相当数含まれていたようです。米軍の影響は精神面のみでなく、昭和33年7月の米軍撤退時に、各種土木工事車両や重機(ブルトーザ、グレーダ、ショベル・カー等)の払い下げを受け、「美保土木建設企業組合」を結成し(「美保土木」の前身)、あるいは各兵舎毎に雇われていたプレスマンに貸与されたスチーム・アイロンを貰い受け、それを集めてクリーニング事業を起こす等、さらにはモータープールの大型ジャッキ、コンプレッサー、充電器、各種工具の払い下げを受け、トラック修理業を始めた人など、海軍とは違った面で地域社会の活性 化に大きな影響を与えました


   
米軍から航空自衛隊への移管

 昭和30年 2月   臨時立川派遣隊が編成。航空自衛隊美保基地が誕生。臨時美保派遣隊と改称、C-46の航空輸送部隊として発足
 昭和32年 5月   米空軍の完全撤退
 昭和33年 9月   美保基地の米国からの返還
 昭和33年10月   輸送航空団の新編 C-46 35機、隊員800人
 昭和34年 3月   初の基地開庁記念式 市民に対する基地の公開

 
 


参考資料等:

中浜公民館誌、幸神町自治会誌中浜小学校百年誌「わたしたちのまち20世紀」(中浜地域史)
  美保中学校創立50周年同窓会名簿、  米軍通訳 足羽喜代子さん(94)才(大阪古屋女子英語塾卒)の記録写真および証言
 米陸軍航空隊第17整備中隊記録
、    機缶場機缶長 松本正光氏(鳥取県西部海友会副会長)の口述)





     

              

              

       
      
 (大篠津駅の画像は鳥取県立博物館の山陰線開通100年記念企画の「鳥取鉄道物語」に「大篠津RTO」として展示のため、依頼により貸出し、2012 2.11-3.20)


            コントロール・タワー(管制塔) 格納庫の屋上に構築
           



 
第3、17および67爆撃WINGを統括する集団司令官パーシング大将が部下将兵に与えた訓示

 To Soldier 
 Hardship will be your lot
, iGod will be your comform.Temptation will befall you, but your Saviour will  give you strength Let you voluror as a soldier and you conduct  as a man be an inspiration to your comrades and honor to your contry.

                                                       
General Pershing


      B-26 軽爆撃機  地上攻撃機型(A-26イントルーダ)  


      
  
       境線大篠津駅からの眺め、延長された滑走路が駅の目前まで伸びている。米軍美保基地配備のB -26爆撃機
     (この画像は鳥取県立博物館の山陰線開通100年記念企画の「鳥取鉄道物語」に展示のため、依頼により貸出し、2012 2.11-3.20)




       

                                           以上








関連企画

「海軍記念館」の建設   壊滅的な敗戦の検証から導出された教訓の伝承 

航空自衛隊の勤務中、前後二回の米国留学の機会を得、通算二年有余、ポンコツ車で米大陸を乗り回し、多くのこと学びました。 内陸部では人口5万以上の市や町には飛行場が整備され数十機の自家用機や旧式の複葉機などが見られ、またに西海岸ではいたる所にヨットハーバーがあり、これまた数えきれない数のヨット、ボート、クルーザが係留されていました。大都市には航空博物館や資料館があり、日本軍機も展示されており、さらには軍の基地にはこれまた多数の日本軍機が戦利品、鹵獲品として展示され、その一部は長年の風雪に曝され、腐食、劣化した機体を分解して倉庫の隅に積み重ね、廃品として好事家に払い下げられていました。とある町の個人の住居の庭に陸軍の戦闘機「隼」が見事に修復されて大切に保存されていることを見て、アメリカ人の好奇心と幅広い気質に感服しました。また沿海の都市には退役した軍艦が記念館
として係留されています。

わが国にもこの種の博物館、記念館が欲しいなと実感した次第です。

わが国でもかって、戦利品として中国に接収され、台湾海軍の旗艦を勤めた幸運の駆逐艦「雪風」の返還運動もありましたが実現しませんでした。昭和46年、解体後の錨と操舵輪が返還され、現在、江田島の海上自衛隊幹部候補生学校に展示保管されています。

また唯一のケースとして大型飛行艇(二式大艇)の変換が行われました。

これは当時、世界で最高性能を持った同機を米側は各種の調査、飛行試験後に解体することなく、ノホークの海軍基地で丁重に永久保管の措置を講じていたのを、日本船舶振興会の笹川良一会長の決断で、分解、梱包を含む約1億円の輸送費を支弁して昭和54年に返還を受け、同振興会の運営する東京東八湖の「船の科学館」」に据付、展示されたもので、平成15年に海上自衛隊に譲渡され、現在、鹿屋基地に展示されています。総額:13千万円の経費を要したと言われています。

米機動部隊の急襲攻撃で連合艦隊が大損害を受けたトラック環礁内および周辺の海底は「海の博物館」と呼ばれ、多数の艦船や戦闘機が海底に埋もれ、毎年定期に世界のダイバーが集まって海中写真を撮っています。インターネットで検索した海底に埋まるゼロ戦を見て万感胸に迫る思いでした。

       

(注:昭和
19216日、米機動部隊の動きを警戒した一ケ月にわたる警備態勢を解除し、兵員は料亭のある夏島に大挙繰り出した。翌17日の早朝、午前4時、連合艦隊の根拠地、父島に対する急襲が始まり、延べ1250機の空襲で退避の遅れた残存艦艇が一挙に壊滅した(軽巡「那珂」、「香取」、「阿賀野」、駆逐艦「太刀風」、「追風」、「舞風」、特設巡洋艦3隻、水上機母艦2隻の他、給油船、輸送船を含め33隻が撃沈され、備蓄していた燃料タンクは一週間にわたった炎上した。基地所在航空機の大半は地上で灰燼に帰し、邀撃に発進した戦闘機も全て撃墜され、合計300機を失った。米側の損害は空母一隻、中破、航空機34機の損失


19801990年代のバブル時代、日本は金余りで「もはや米国から学ぶものなし」と豪語し、ニューヨークの高層ビルを買占め、挙句の果て、アメリカ人の心の故郷ともいうべき「ハリウッド」まで買い占めながら、各地に散在する日本陸海軍機を安価に購入または委譲を受け、日本に「航空博物館」を建設して、わが国における航空産業の歴史および設計、技術者の努力と成果を次世代に継承しようという発想は皆無でした。

せめてプラモデルで太平洋戦争に参加した日、米、英の艦艇と航空機を全種目にわたり製作し、写真、画像、資料(特に技術資料) を添えて展示しようと決意した次第です。 その試みの一助として、平成14年に「インターネット航空資料記念館を開設、アンテナ端末局として多くのアクセスを頂き、また貴重な提案、ご意見も賜りました。 今までに、依頼により45回、公民館その他で「海軍のすべて展」を開催し、あるいは山陰テレビ(BSS)の依頼で昭和2824日に美保湾の集合した連合艦艇63隻を当時の姿で復元し、スタジオに持ち込み演習状況、衝突事故の再現など1時間番組の制作に関与して参りました。

現在の時点で、航空機約200機と共に、太平洋で戦った日米英の主用艦艇約250隻の製作を行い。展示するコンテンツは殆ど揃いました。現在、仕事の合間に追加的な説明資料を作成し、また画像や写真のさらなる収集を図っております。

最終目標は常設の「海軍記念館」を建設することにあります。将来の実現を期して一歩一歩積み重ね、せい一杯努力しようと決意しております。

「海軍記念館」建設の趣旨は「インターネット航空資料館」のご挨拶に述べさせて戴いております趣旨と同じで、展示対象の範囲 を太平洋戦争で戦った日米英艦艇の全種類を包含しました。 




  インターネット航空資料館の開館のご挨拶

                       平成143月佳日 館長 松下 薫、

米国のスミソニアン航空宇宙博物館やサンディエゴ航空博物館をはじめ米国各州の航空博物館や軍事基地には第二次大戦(太平洋戦争)中に活躍した各種の航空機が展示されています。そしてその中に日本陸海軍の航空機も見られます。これは戦時中に鹵獲および捕獲されたものほか、敗戦後に性能検査および記録のため多数の日本軍の陸海軍機が米国に搬入され、調査後にその多くが解体処分され、また一部が好事家に払い下げられたりしましたが、各地の航空博物館にはゼロ戦、紫電(改)、疾風などのかっての名機が現在もなお保存、展示されており、さらには復元、整備して飛行展示を行っているゼロ戦さえあります。

日支事変を通し、太平洋戦争敗戦の日までの十余年間、海軍は58余機種、約四万機、陸軍は56余機種、約三万五千機の軍用機をそれぞれ陸・海軍省の縦割りの中で資材、予算を取り合いながら別々に設計、製造してきました。そのような状況の中でも世界の航空史に残る多くの名作機や傑作機が誕生し、わが国における航空機製造技術の確固たる基盤を造成し、金字塔を打建てました。

 特に、戦争末期には連日のB-29戦略爆撃機の猛爆下で、地方に分散した設備の悪い作業所で、あるいは山村の蚕養小屋のランプの灯下で最新技術のロケっト機やジェット戦闘機の設計、製作が続けられました。

 乏しい資材、代用金属、ガソリン不足のため松根油を混合した低オクタン価の燃料による発動機の効率化などなど設計および製造技術者の血の出るような研鑚、努力およびその実績は脈々として現代に継承され、わが国の航空・宇宙産業に生かされております。 

 戦争のことは思い出したくない、全て忘れたいという心情と、先輩技術者の輝かし業績を知り、その努力の跡を辿ることは全く別の次元の問題であります。今回のモデル機の公開展示の目的は技術立国を担う次世代の青少年にわが国における航空技術(設計および製造)の発展の推移と事実を知ってもらうためです。そしてまた、人命尊重を基盤にした米英軍機の設計理念とわが国の性能第一主義との差、生産、品質管理、およびトータル・システムとしての開発計画の重要性等を認識してもらうためでもあります



関連論説:「技術立国のすすめ」
                

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